万世大路・大滝宿の住宅と生活  (福島県福島市)  2013.09 作成 2015.08 公開    [TOP]  [寄り道]

     
 
  左は昭和46年頃、右は平成25年の渡辺家を同じ場所から撮影したもの  

  江戸時代の板谷街道に代わり、福島県福島市と山形県米沢市を結ぶ幹線が新規開削されたのが明治14年(1881)。
  その馬車道は明治天皇により万世大路と命名され、後には国道13号に昇格した。
  開通に伴い、長大な奥羽山脈越え区間にはいくつかの宿駅が新たに設置されることになった。
  そのひとつが今回紹介する大滝宿である。
  旅籠や運送業で栄えた大滝であったが、奥羽本線の開業、バイパス開通による旧道化などにより次第に衰退。
  昭和54年(1979)に最後まで残っていた7世帯が離村し、大滝は廃村となった。
   
  離村してからも元大滝住人同士の結束は固く、「大滝会」を結成して親睦を図っている。
  その大滝会の公式HPとも言える「わが大滝の記録」にて、各年代の「大滝集落図」なるものを発見。
  勝手に図のhtml化を試みてみたものの、あえなく挫折。 そのまま放置していたのだが、
  ある時、これを「わが大滝の記録」管理人氏にお見せしたところ、誤りの指摘や加筆すべき情報を多数頂いた。
  さらに加えて、大滝に住んでいた方でしか知り得ない、当時の状況や生活の様子、秘話を伺うことができた。
  「これは是非記録として残し、公開せねばなるまい」との思いに至ったわけである。
   
 
  昭和50年の大滝。黄文字は昭和51年に存在した世帯。                            「国土画像観覧システム」より転載・加工
   

     

世帯数

 

 

 

人口

     

明治14年

         

28

   
 

【 凡例 】

 

明治28年

         

51

   
  ■□   昭和10年時の世帯 ( )内は間借り   22 9 12  

43

 

266

    昭和30年時の世帯 □は無人 青字は世帯主に変更があったもの   14 6 7  

27

  165
     

昭和35年

         

32

 

190

    昭和51年時に存在した7世帯 赤字はその世帯主   6 1 0  

7

 

34

                       
    短期間存在した世帯                
    廃村(昭和54年)後に建てられたもの                
 

背景ブルー

  大平宿から移住した世帯                
                       
  以下、敬称略                    

 

     

S51

S30

S10

  ↑米沢  

S10

S30

S51

     

廃村後

 
              西川橋                  
   

明治30年代〜大正初期頃、運搬道として開削

   

蛇体道

    蛇体銅山      
       

西の家

  高野から借金していたが夜逃げ          
          渡辺a                    
   

高野家の土蔵に居候

我孫子1

)・

  高野(宮内屋)           繭乾燥倉庫現存  
     

◆別荘←

渡辺c

分家

長老沢バス停 渡辺b(中屋) 鳳駕駐蹕之蹟の碑   本家   現存  
   

餅屋 西山

(S16頃)

      渡辺d

木村1

 

分家

→渡辺c跡に別荘  
              せとの沢

洗い場

↑元半田家(西村屋跡?          
     

笠原

紺野a   渡辺e       長老沢   現存  
          紺野b   渡辺f →物置     (胡桃平)      
               

繭乾燥倉庫              
        三坂2 笹木   渡辺g

須田
(二軒分)

須田分家

 

酒・たばこ・塩
その他雑貨

     
          山岸   渡辺1 焼失 須田  

(〜S48頃まで)

   
   

バイパス開通に伴う補償として農道を開削

     

長老沢バス停へ

       
        渡辺2 佐藤a   佐藤b →畑

→営林署兼宿舎2

         
                木村本家

油井

S20頃移入          
          後藤   長尾 (佐藤)

佐藤

           
   

+ + + + +

+ + +

+ + +

+ + +

+

胡桃橋

+

+ + + + + + + + + +

+ + + +

+ + + + + +      
       

陸運物貨継立所

  二階堂 (新保)   渡辺3   古峯神社      
                  ↑胡桃平に属す     呼出スピーカー    
             

入いら沢橋

                 
   

上流から水を引き、各世帯の生活用水に

      「いら」=イラクサ              
             

いら沢橋

                 
       

山神神社

    防火用水池 埋没 いら沢上流より引水          
   

分校2

分校1

大滝記念碑

←教員宿舎

    蒲倉a 荷馬車運送業     →跡地に飲食店 H9?
 「すずめのお宿」
 
     

分校3

耕地化←

斉藤□     廃校後、分校3は公民館に       ニホンザルを飼ってた  
    飯坂スキー場
従業員だった

三坂3

木炭組合事務所
(S6建設)

          大 滝      
       

営林署兼宿舎1

  吾妻 蒲倉b 荷馬車運送業          
     

元ブラジル移民←

須田   消防ポンプ倉庫    

現存

  →大滝会事務所 H19  
       

馬宿

須田

大滝バス停

太見(森笠) 荷馬車運送業  

須田

食堂「大瀧屋」に改装  
       

木村2

紺野

    ・馬小屋
・納屋 (太見)
切手・ハガキ・印紙扱い
(〜S34頃まで)

太見跡→

芝居小屋 「萬世座」
見世物小屋「末広亭」
 
          紺野   須田本家 荷馬車運送業       末広亭は撤去  
     

橋本館(馬宿)

柾木     ↑S30代、集落共有電話をここに設置          
                     

墓地へ

BPにより切断

     
   

+ + + + +

+ + +

+ + +

+ + +

+

大滝橋

+

+ + + + + + + + + +

+ + + +

+ + + + + +      
         

水神

 

「S8荒木家建立」とある。村外の人らしい        
    大滝不動尊  

三坂1

   

戦後に移住              
    ←赤岩駅へ  

赤岩道

     

S9 失業対策として開削(通称・救済みち)          
   

R13改修工事作業員への →

佐藤c   佐藤d    

一部BPに

     
   

賃金支払い責任者をしていた

      斉藤  

         
         

洗い場

                   
                木炭倉庫 S9建設            
          羽賀 葭沢バス停 斉藤              
                我孫子2       よしざわ      
                          葭 沢      
      飲食店
「大瀧宿」

熊坂

  飲食店
「もみじ亭」
       

熊坂跡→ 「大瀧宿」
新規→ 「もみじ亭」

 
             

葭沢橋

                 
                伊藤              
       

(山田)小林

                   
   

大滝銅山

吊橋

饅頭屋

吉田  

←鉱山労働者に饅頭を製造販売していた

         
    明治後期〜大正初期        

湧水(元位置) 立体交差化工事の際に移転      
         

湧水

↓福島

                 

 

  <地区の名称>
  大滝宿を含む広い範囲を長老沢と呼ぶ。
  具体的には、中野第二トンネル西口付近から西川までが現在でも長老沢である。
  長老沢の西端に成立した大滝宿は大滝橋を境として大滝、葭沢と2地区に分かれており、
  これが最後まで正式な地名であった。(飯坂町中野字大滝と飯坂町中野字葭沢を合わせて大滝宿。つまり厳密に言うと葭沢は大滝ではない)
  しかし大滝の範囲が広いため、住民は胡桃橋以西を長老沢と呼ぶようになった。(この3分割状態がバス停名に反映された)
  やがて元の(大)長老沢との混同を避けるため、(小)長老沢胡桃平と改称して区別した。
  つまり胡桃平との呼称は住民間だけで通じる俗称であり、公式な地名・住所ではなかった。
  大滝宿は(大)長老沢の一部であったため、郵便物は「長老沢○番地」でも、「大滝○番地」「葭沢○番地」どちらの表記でも届いた。
  胡桃平には旅籠が多く、大滝では馬宿や運送業が多いのが特徴であった。 (元住人・紺野氏の証言による)
   
  <3軒の旅籠>
  大滝宿が形成された当初、旅籠の数は3軒であった。
  宮内屋(高野)、中屋(渡辺)、西村屋がそれだが、西村屋は早期に転出してしまったため、位置も世帯主も伝わっていない。
  ただ、中屋東隣に建つ渡辺d宅に以前住んでいた半田家が西村屋だったのではないかと推測されている。
  明治14年(1881)、明治天皇の一行が大滝に立ち寄った際、半田多五右衛門(たごえもん)宅が重臣たちの休憩所になったこと、
  その際、清水を引き込んで、飲料水として提供したという記録があり、(その清水は昭和初期には枯渇してしまって現存しない)
  これらの重要度、及び立地も半田家=西村屋説を裏付ける有力な根拠となっている。
   
  また、後年大滝で生産される木炭の仲買をしていた業者も半田姓であった。
  やや離れた飯坂の業者で、どのような経緯があったのか不明だが大滝と独占的に商取引をしていた。
  こうした背景から、この半田家が、離村した西村屋の子孫なのではないかと推測されている。
  なお、この業者の後裔会社である半田運輸整備がつい近年まで営業しており、現在でも大滝と密接な関係が続いている。
  (独占状態は後に角田商店が参加することで解消。この角田家も大滝に移住予定のあった角田平助の子孫ではないかと見られている)
   
  当初、明治天皇が休憩する旅籠は宮内屋に内定していたのだが、隣の中屋が宿を増改築した上で、県への陳情を重ねた結果、
  内定が破棄されて中屋で休憩することに変わってしまった。
  それから暫くの間、宮内屋と中屋には確執が残ったと言う。
  ただし現在では両家の子孫の方々に何のわだかまりも残っておらず、親しい関係となっているとのこと。
   
 
  中屋(旧渡辺家)前に立つ「鳳駕駐蹕之蹟」と「明治天皇大瀧御小休所」の石碑  2013.06
   
  <大平宿からの移住者>
  昭和7年(1932)、大平宿から6世帯が移住してきた。
  各情報・証言を合わせると、世帯主は我孫子富蔵、吾妻定、笠原美雄、新保代次郎、羽賀運太郎、佐藤好蔵、とのこと。
  そのうち米沢藩上士名簿と姓が重なるのは新保のみ。
  新保家は席次第34位・禄高200石の揚北衆とのことだが、代次郎が同家の人かどうかは確認が取れていない。
  もしかしたら大平に入植した士族のリーダー的存在で、ゆえに最後まで残っていたのかも知れない。
  他の5世帯は元藩士かどうか不明。
   
  我孫子は当初高野家脇の土蔵を借りて住んでいたが、のちに葭沢に家を構えた。
  吾妻は大滝移住の1〜2年後に再び転出。(昭和10年時には蒲倉bが代わって入居)
  笠原、新保、羽賀も昭和30年代までに大滝を去り、残った2世帯・佐藤、我孫子も昭和51年までに転出している。
  大滝には耕地が少なく、大平の畑に通うには遠過ぎたのであろう。 こうして「大平組」は大滝から全て消えた。
  また、蒲倉a、熊坂は大滝から大平に移住したが長く続かず、再び大滝に戻ってきたとのこと。(蒲倉aとbは兄弟)
  大平宿への転入出はかなり激しかったようだが、裏付ける資料・証言が非常に少なく不明な点が多い。 (元住人・伊藤氏、渡辺氏の証言による)
   
  大平で生まれた女性が米沢の高橋家に嫁ぎ、その子が年老いた今でも米沢に在住しており、
  幼少の頃、母親と一緒に大平に帰省する度に、栗子山隧道を通り抜けていたことを記憶しているとのこと。
  栗子隧道ではなく、明治の素掘り隧道通行の記録は大変希少である。
  「1mほどの棒を持ち、壁に当てながら歩いた」
  「真っ暗な中でつまづいて転び、棒や帽子を探している内に方向が分からなくなって、また入り口の方に来る人もいた」
  「馬車で運ぶものもあったが、馬は暗い所に入って行くのを嫌うので、空き缶に布と油を入れて照明としていた」との記録が残る。
  ちなみに、開通当初は両坑口に照明用の火を灯しており、通行人から油代として1銭5厘を徴収していた、とのこと。
  (「万世大路を歩く」より)
  ・大平宿
  明治14年(1881)の万世大路開通と同時期に旧米沢藩士20戸が移住して運送業や宿屋を営んでいたが、奥羽本線開通の影響を受けて衰退。
  昭和に入って万世大路に車道化改修工事が成されることになり、
  その際、大平は道路拡幅(盛土して路面を5m嵩上げ)により宅地が潰地となるため、全戸退去が求められた。
  昭和7年(1932)、大平に残っていた全6世帯が退去。全世帯とも大滝に転居(空家を買う、借りる、間借りなど)した。
  翌年から改修工事が着工されたが、当初大平の廃屋を補修して現地事務所や宿舎として再利用していたと言う。
   
  <短期間のみ在住した人>
  「わが大滝の記録」に第二次世界大戦の「出征兵氏名」が掲載されている。
  大滝からは25名が戦地に送られ、その半数近い11名が帰らぬ人となった。
  この名簿と、大滝青年会会長森笠潔という名があるのだが、大滝に森笠家があった記録がなく、詳細不明であった。
  これが一部判明した。
  彼は栃木県黒磯市に住んでいたのだが、女子しかいなかった太見家に養子として転居してきた。
  しかし養子"候補"だったらしく、姓は森笠のままだった。
  その後太見家は別の養子を向かえたため、彼は黒磯にいる縁者の元に帰ったのだという。 (元住人・渡辺氏の証言による)
   
  出身者名簿にある須田マサイは明治期に大滝からブラジルに移住し、コーヒー農園経営で成功していたが、
  太平洋大戦が始まると敵視されて住み辛くなったため一家全員で帰国し、再び大滝に住むようになった。
  帰国後も農園の収益がドルで送金されていたため、裕福な生活をしていたとのこと。
  大滝に来たのは昭和18年前後と思われるが、昭和30年までには離れたらしく、地図に記載がない。
  須田(本家)の一族で、当初は須田正見と共に須田(馬宿)家に同居していたが、
  マサイは馬宿の西隣に、正見は渡辺1の裏に居を構えていた。 (元住人・渡辺氏の証言による)
   
  名簿の最後に「現住所不明」として西山隼人の名があるが、西山家も地図になく、謎であった。
  証言によると彼は胡桃平に居を構え、大福餅の製造販売をしていたとのことで、通称「餅屋」と呼ばれていたという。
  国道から渡辺cの裏に回り、小川を渡って細道を上ると平場があり、そこは畑になっていた。
  その一角に住居兼店舗があったと言う。 (元住人・伊藤氏の証言による)
  彼はなぜこんな人目の触れない場所に商店を構えたのだろうか。 ここ以外に空地がなかったからだろうか。
  ほどなく西山一家は大滝を離れることになる。 大滝滞在は昭和14〜16年頃までの短い期間であったとのこと。
  蛇体銅山の関係者だったとの証言もあるが、詳細は不明である。 (元住人・紺野氏の証言による)
   
  <中野小学校大滝分校の歴史>
  明治23年 (1890) 2月   中野小学校大滝分教場、開設 (初代) 年表
  昭和9年 (1934) 10月   校舎を新築、及び山を崩して校庭拡張。旧校舎は解体 (二代目)(記念写真あり) 年表
  昭和23年 (1948) 1月   校舎を増改築(2教室化:小学1、中学1) さらに教員宿舎を併設、校庭を再拡充 年表・証言
  昭和25年 (1950) 5月   校舎を再増築(1教室増やし3教室化:小学2、中学1 年表
  昭和27年 (1952) 7月   教員宿舎を新築 (現在は大滝記念碑が建つ) 年表
  昭和31年 (1956)

5月

  分校(中)廃止、飯坂町の大鳥中学校に統合 年表
  昭和36年 (1961) 4月   斉藤家跡や周囲の畑を含むエリアに移設・新築。旧校舎は解体 (三代目)

年表・証言

  昭和42年 (1967) 3月   分校(小)廃止、飯坂町の中野小学校に統合 (校舎は大滝公民館として非公式に再利用。その後撤去) 年表・証言
     
 
  中野小学校大滝分教場 (昭和9年10月)  「わが大滝の記録」より転載 分校跡(初代、二代目)の広場では今でも春に観桜会、秋には芋煮会が開催され、
県内だけでなく、日本各地から多数の元住人が参加している。
写真は平成22年に行われた観桜会の様子。
左写真とほぼ同じ位置から撮影。
  <大滝橋付近の今昔>
             
  昭和30年代の大滝。

手前の橋は大滝橋で、当時はまだ木橋であった。

そのため、4トンの重量制限が設けられていたことが分かる。

奥に見える車両は福島交通の定期バスである。

(提供 柾木新吉様)

             
  昭和30年代末〜昭和40年代初期頃、大滝橋はコンクリート橋に架け替えられた。

正面は明治期に馬宿・橋本館を営んでいた柾木家。

(提供 柾木新吉様)

             
  観光開発された昭和60年頃の大滝。

既に柾木家は撤去され、跡地が潅木に覆われている。

中央奥に見えるのは、食堂に改装された須田家。

手前右にも観光施設が新設されている。

(提供 柾木新吉様)

             
  平成24年春の大滝。

建物は撤去され、雑草が生い茂る空地が点在するだけとなった。

大滝橋だけが変わることなく、訪れる人を通し続けている。

(提供 鹿摩貞男様)

   
  <鉱山の開発>
  大滝銅山 (明治後期〜大正初期)  発見・採掘者 三ッ石三平
  銅の純度は高かったが鉱脈が薄く、長くは続かなかった。
  鉱山は川を挟んだ対岸にあったが、川が深い谷になっており、しかも対岸は高く険しい崖だったため、
  此岸と同じ高さの崖面に坑口を設け、吊橋を渡ると直接坑内に入れるようになっていた。
  搬出された鉱石は馬車に積まれて万世大路を下って行った。
  廃坑後も吊橋は昭和30年頃まで健在で、坑道を渡辺dが穀物倉庫として使用していた。
   
  蛇体銅山 (明治30年代〜大正初期)
  旧西川橋付近に集積場があり、ここで働く大滝住人もいた。
  鉱石を橇に積み、牛に引かせて集積場まで下ろしていたと言う。
  運搬道に丸太や半分に割った木材を横に並べ、その上を橇が上り下りしていた。
  蛇体銅山の手前に「末松鉱山」というのがあったそうだが、採鉱量は少なかったとのこと。
  詳細は不明である。 (元住人・高野氏の証言による)
   
  中野銅山 (〜昭和40年頃) 米倉鉱業(秋田)
  大滝からやや離れるが、中野第二トンネル西口付近の小川左岸にも鉱山があった。
  鉱石は索道にて対岸まで搬出されており、川には作業員用の小さな橋が架けられていた。(流出して現存せず)
  15世帯(約80名)が川沿いの鉱山住宅に住み、鉱夫の子供は大滝分校に通っていたとのこと。
  現在でも元大滝住人の方々と交流があり、集会などに参加している。 (元住人・渡辺氏、紺野氏の証言による)
   
  中野銅山跡を空から確認する。

これは昭和41年(1966)に撮影されたもので、閉山して間もない時期のため、

多くの遺構が確認できる。

 

「国土変遷アーカイブ」より引用・加工

 
  <バスの開通>
  大滝から市街地に出るためには赤岩道を歩いて赤岩駅まで行き、そこから汽車に乗って福島に出るしか手段がなかった。
  しかし、昭和33年(1958)に飯坂までの定期バスが開通し、格段に便利になった。
  各バス停に待合室はなく、バス停近くの家でお茶を飲むなどしてバスが来るのを待っていた。
   
  バイパスの完成により福島までの定期バスが開通したが、大滝に3箇所あったバス停が全て廃止・移設されたため不便になった。
   ・長老沢バス停 大滝第一トンネル西口に移設
   ・大滝バス停   廃止
   ・葭沢バス停   新旧道の分岐点付近に移設
   
  胡桃平の北側斜面はかなり上の方まで農地があり、そこに通じる細い作業道もあったのだが、
  バイパスのために切断され、路肩の盛土で一部が埋められることになった。
  その補償として、集落からバイパス上部に残る農地へ短絡する農道が新規開削された。(リヤカーが通れる程の幅員があった)
  後にその短絡農道は長老沢バス停への近道としても利用されるようになり、大鳥中学校に通う生徒の通学路にもなった。
  (元住人・紺野氏、元建設省・鹿摩氏の証言による)
   
  西川橋建設工事の際、旧西川橋の袂に広い資材置き場が設けられたのだが、
  工事終了後はバイパスにバス停が移設されるまでの短い期間、バスの回転場として使用された。 (元住人・紺野氏の証言による)
   
  完成間近の国道13号バイパス。

中央に西川橋、その奥に大滝第二トンネル、左下に旧国道と大滝の町並みが見える。

右下に写っているのが、補償工事で開削された短絡農道。

かなりの幅員があったことが分かる。

完成記念パンフレット「萬世大路」より引用 (提供 鹿摩貞男様)

     
  <衣食住・聞き書き>
  輸送業や鉱山開発で一時期非常に繁栄したが、遊郭ができたことはついになかった。
   
  当時大滝では西川から先を「二ッ小屋のほう」と呼び、二ッ小屋から先は「栗子のほう」と呼んでいた。
  二ッ小屋隧道南口付近には民家跡があり、その庭の梨に小さい実がなるので秋になると採りに行った。(昭和30〜35年頃)
  当時、昭和の改修時に二ッ小屋隧道南口付近に設置された現地事務所(らしき建物)はまだ建っていた。(同上)
   
  何軒かの家には猟銃があり、生業である炭焼きの合間に猟をしていた。
  昭和15年頃には、渡辺dの世帯主であった渡辺勇八が冬山に猟に行った帰路、雪崩に遭遇して亡くなるという悲劇も発生した。
  遭難場所は奇しくも森元巡査(後述)が亡くなった新沢付近であった。(詳しくは「新沢」向かいの通称「カーコ沢」の谷) 位置は不明
   
  新沢橋から先(米沢側)は険しい急斜面でヘアピンカーブの連続になっている。
  そのため、付近では荷車を引いた馬が絶命することも少なくなかったとのこと。
  道中に馬頭尊碑があまり見られないのは建てる習慣がなかったのか、あるいは雪崩等で流出してしまったからだろうか。
  (山神神社前に1基あったが、現在は大滝記念碑脇に移設されている)
   
  大滝の周囲には何箇所かの萱場があり、屋根材、炭俵の他、冬には家の周りを囲う防寒材として使われた。
  屋根の葺き替えは福島市から職人を呼んで行われた。
   
  渡辺1は2に移転したあと空家となっていたが、パイパス工事の際に労働者の宿舎として使われた。
  しかし労働者の寝タバコが原因で昭和32年頃に焼失してしまった。
   
  大滝付近のバイパスは米沢方面から長い下り坂になっており、
  スピード超過のクルマが新旧道分岐点付近のカーブを曲がり切れず、小川に転落する事故が多発した。
  しかもカーブの途中には交差点(大滝への分岐)がある、という悪条件が重なっていた。
  そのためカーブが緩やかになるよう線形変更工事が実施され、さらに立体交差になった。
   
  米は月に一回業者が来て、木炭組合事務所前にて販売していた。
  味噌は各家庭の自家製。醤油は自家製味噌の上澄み(たまり)で代用していた。
   
  万世大路は現役の国道であるにも関わらず、雪が降れば閉鎖されていた。
  バイパス開通後も(むろん前も)集落内の道は除雪されず、大雪が降ると住人の通行すら不可能になってしまうので、
  冬季はバイパス脇の空地(長老沢バス停付近)に小屋を作って自家用車を避難させていたとのこと。
  バイパス工事期間中は機材搬入のため除雪車が大滝まで来てくれたが、工事が終わるとまた来なくなってしまったという。
  飯坂にある大鳥中学校までバスで通う生徒のため、長老沢バス停までの作業道を父兄らが毎日早朝から交代で除雪していた。
  バスが開通する以前は冬季(11月〜3月)に限り、大鳥中学校にある寄宿舎にて生活していた。
   
  上水道
  胡桃平ではせとの沢、大滝ではいら沢、葭沢では佐藤c脇を流れる沢水を水道水としていた。
  石を積んで沢を堰き止め、そこに節を抜いた竹(後に塩ビ管)を差し込んで引水し、各世帯に分水していた。
  丸太を刳り貫き、横に複数の穴を開けただけの簡単な分水器であった。
  よって時々サンショウウオが紛れ込んだり、砂や落葉が混入して管が詰まることもあった。
  近くに湧水がある世帯はそこから独自に引水していた。(こちらは異物混入なし)
  蛇口はなく、常時流しっ放しであったため、炊事場を母屋ではなく離れに設置する世帯が多かった。
  この状態は廃村まで続いた。
  胡桃平、葭沢には上記の沢から引水した共同洗い場があった。
   
  家畜
  ・ニワトリ・・・ほとんどの家で飼っており、卵を食べていた。
  ・ヤギ・・・土地が狭いため牛は飼えず、代わりにヤギを飼って乳を飲んでいた。
  ・ヒツジ・・・羊毛を売って現金収入を得ていた。
  ・ネコ・・・どの家でもペットとして飼っており、ネズミやヘビ対策としていた。
  ・タヌキ・・・紺野aと太見にてペットとして飼っていた。
  (以上は元住人・紺野氏の証言による)
   
  2004.05 2004.11
 

東栗子トンネル東口にある標識には「二ッ小屋」の地名がある

二ッ小屋隧道南口

     
  <ある警察官の殉職>
  明治・大正の頃、大滝川を遡った山奥にある大滝不動尊には賭博場があった。
  明治21年(1888)、この賭博場で殺人事件が発生。犯人は二ッ小屋駐在所(二ッ小屋隧道南口西側にあった)に連行された。
  1月4日、駐在所の森元源吾巡査は飯坂分署まで犯人を護送して引き渡し、翌5日帰路に付いた。
  しかし大滝宿を抜けて新沢橋を渡り、九十九折れを上った所(石小屋)で吹雪と六尺を越える積雪に阻まれて遭難。
  必死の捜索にも関わらず行方不明となった。
  彼の遺体が発見されたのは雪が解けた5月になってからのことであった。(犯人は数年後に獄死)
   
  時は流れ、昭和35年(1960)になって森元巡査の慰霊碑が遭難現場付近の路肩に建てられた。
  しかしパイパス開通後は旧国道の藪化が進んだため、昭和61年(1986)、百回忌を前に新沢橋の袂に移設されている。
  今でも供養の式典が毎年行われているとのこと。
   
  碑文によると、彼は代々白河藩剣道指南役をしていた森元家の長男として嘉永元年(1848)7月に生まれている。
  激戦として知られる白河口の戦い(1868)に、当時20歳前後だった源吾は参戦したのだろうか。
  明治8年(1875)になり、彼は福島県の四等巡査として採用される。
  「西南戦争出征福島県人名簿」森元源吾 警視局四等巡査 (鹿児島警備隊)」とあるのだが、
  これが同一人物ならば、採用2年後の29歳の時に西南戦争(1877)のため九州へ渡り、西郷隆盛の軍と交戦していたことになる。
  二ッ小屋駐在所に異動になったのは9年後の明治19年(1886)。 殉職はその2年後のこと。まだ39歳であった。
   
  <参考>
  幕末、江戸三大道場のひとつ練兵館の創設者である斉藤弥九郎の長男・新太郎が全国へ武者修行の旅に出た。
  その日記によると、彼は弘化4年(1847)4月に白河の道場を訪れ、「一刀流師範 森元確斎」という人物と会っている。
  これは森元巡査の祖父・岩之助のことで、天保12年(1841)に隠居して確斎と名乗っていた。 1847年は源吾が生まれる前年である。
  ・練兵館 門下生として、塾頭を務めた桂小五郎(木戸孝允)のほか、高杉晋作・品川弥二郎・井上馨・伊藤博文らがいた。
  斉藤新太郎は白河に寄った翌月会津を訪れ、「神道精武流師範 井深蔵人」に合っている。井深もかつて練兵館にて学んでいた。
  数年後、新太郎の紹介で蔵人を訪ねてきたのが吉田松陰であった。井深蔵人はSONY創始者・井深大の祖先である。
   
  二ッ小屋隧道付近に駐在所が必要だったのは、厳冬期であっても人の通行があったからだった。
  大平の住人が生活物資買い出しのため、冬でも馬橇で中野、飯坂や福島まで定期的に通っており、
  その出入りを確認する必要があったとのこと。
  また、二ッ小屋付近を徘徊する浮浪者や自殺を図る者がおり、これを取り締まる業務もあったと言う。
  なお、堰場と二ッ小屋には駐在所が置かれたが、大滝に設置されることはなかった。 (元住人・紺野氏の証言による)
   
  明治期には栗子山隧道の両側や二ッ小屋に旅籠があった。
  また、冬季の交通を確保するための雪踏み要員として、米沢刑務所の囚人が川越石に13人、
  栗子山隧道西口に10人配置されていたというから、これらの巡回や警備のためにも警察官の通年常駐が必要だったのかも知れない。
   
   
 

旧国道上に移設された森元巡査の慰霊碑

「殉職警察官之碑」とある

2004.05
   
 

<本碑裏面>

  飯坂警察分署 森元源吾巡査
  氏は嘉永元年7月、西白河郡白河町森元万六氏の男として生る。
  明治8年11月福島県四等巡査を拝命。
  同19年11月飯坂分署勤務となり、二ッ小屋註在所に服務す。
  同21年1月4日囚人を護送して飯坂分署に出張。
  翌5日帰任の途中、信夫郡中野村字石小屋地内山中に於いて六尺を越ゆる猛雪に遭難。
  凡ゆる捜査も効なく、5月1日に至り死体として発見さる。享年41歳。 
  因に森元家は代々白河藩の剣道指南をして居り、先代森元一刀太は小野派一刀流の達人であった。
  昭和35年9月26日建之  発起人中野地区防犯協会
   
  <慰霊碑建立の意外な顛末>
  森元巡査の殉職は明治21年(1888)。 慰霊碑が建てられたのは、それから72年も経過した昭和35年(1960)。
  この不可解な時間差はなぜ生じたのであろうか。
  地元出身でもない巡査の慰霊碑が建てられ、わざわざ移転までして丁寧に扱われ、今でも花や線香が手向けられるのはなぜだろうか。
   
  大滝の関係者には、次のような伝聞が伝わっている。
  巡査の死から数十年が過ぎ、日清、日露、第二次世界大戦を経て人々の記憶からもすっかり消えて久しい昭和30年頃のこと。
  福島市のとある一家に病人が出たのだが、原因不明の難病で、病院に行っても薬を飲んでも一向に良くならず、
  困り果てた家族は占い師を呼んで見てもらうことにした。
  すると占い師は、「一家の縁者に殺人犯がおり、その犠牲者の怨念があるので供養すべし」とのご託宣があった。
  一家にはひとつだけ思い当たることがあった。 明治時代に遠い縁者が大滝で殺人事件を起こしていたのである。
  怨念の主が賭博場で殺された人なのか、遭難死した巡査なのかは分からなかったので、一家は双方の供養をすることにした。
  双方の墓前にて丁重なる供養を執り行ったという。
  加えて森元巡査の遭難現場には新たに石碑を設置し、永劫の慰霊としたのであった。
  以上が「殉職警察官之碑」建立の顛末である。
  なお、件の病人がその後無事回復したかどうかは伝わっていない。
   
 

 

  <森元巡査の略歴と遭難事故の流れ>
  鹿摩貞男氏の調査により詳細な経歴が判明したので、既存の情報と合わせて以下に年表化しておく。
   
  嘉永元年 1848   7月、西白河郡白河町にて、白河藩士森元万六(一刀太)の長男として生れる  
  慶応3年 1866   藩主・阿部家が白河藩から棚倉藩に移封される    
         (阿部正外は幕府の老中を務めていたが、開港を巡って朝廷と対立。勅命により改易となった。減封のうえ、隠居、謹慎)    
             
  明治8年 1875   福島県四等巡査を拝命  
  明治10年 1877   7月、警視局に巡査として出向したが、間もなく退職  
         (この年に発生した西南戦争に対応するため、政府が警視局員を募集。
  県の警察官になっていた東軍の藩士らは、職を辞して警視局に入り、西南戦争に参戦。
  終戦後は再び県警に戻った、という経緯だと思われる)
   
  明治12年 1879   10月、再び福島県四等巡査を拝命  
  明治19年 1886   石川、平、福島の各署勤務を経た後、11月に飯坂分署に転勤。二ツ小屋駐在所に勤務  
         (三島通庸が福島県令をしていた時期と重なる。自由民権家の弾圧に加わっていたと思われる)    
  明治21年 1888   大滝の賭博場にて殺人事件が発生    
        1/4 容疑者を飯坂分署まで護送。そのまま飯坂で一泊    
        1/5 午後1時に分署を出発。二ツ小屋駐在所に向かう  
        1/5 午後5時半頃、大滝の旅館・宮内屋(高野家)に立ち寄る  
         (飯坂から大滝まで4時間半掛かっている)    
         (高野家の口伝によると、「この日に限って立ち寄らなかった」とのこと。食い違いが見られる)    
        1/10 「まだ帰所してない」との連絡が、駐在所から分署にもたらされる  
         (遭難から5日も経過している。日程を把握してなかったのだろうか)    
         (誰が、どんな手段で連絡したのだろうか? 駐在所にいた同僚、あるいは妻か)    
        同署員及び人夫90余名にて捜索したが積雪に阻まれ発見できず、捜索断念    
             
        5/1 春、中野村字石小屋にて遺体発見    
        5/3 白河市向新蔵にある常宣寺に、先祖と並んで埋葬される  
         (おそらく森元家の菩提寺なのであろう。他の白河藩士も眠っている)    
        中野村の有志が、遺体発見場所に供養の木碑を建てる  
         (3年ごとに建て直され、地元の人は付近を「モリモト」と呼んでいたとのこと)  
             
  昭和35年 1960   図の「当初設置位置」に慰霊碑が建てられる (基礎現存。木碑の位置とはやや異なるらしい)  
  昭和61年 1986   廃道となり、藪化が著しいため、慰霊碑が「移設位置」に移される    
             

 
  昭和50年頃の大滝。黄色は昭和51年に存在した世帯。 「わが大滝の記録」より転載・加工
   
  <観光地としての「大滝宿」>
 
  平成6年(1994)版 「福島県広域道路地図」(人文社)より、大滝周辺を転載。
  昭和50年代初めから観光開発され始めた「大滝宿」"史跡・名所"として赤文字で描かれている。
  芝居を見るには予約が必要で、冬期は休業していたようだ。
  今では赤錆びたリフトや廃屋が残るのみとなった「飯坂スキー場」の表記もあり、飯坂スキー場バス停が存在していたことも分かる。
  しかし、飯坂スキー場の営業時期は昭和42〜46年のごく短い期間だったとのこと。
  遠く山形県最上町にある酒造会社・佐藤酒造店が開発・経営していた。
  "小屋トンネル"とは、もちろん二ッ小屋隧道の誤記である。 (元住人でスキー場元従業員・三坂氏の証言)
   
  <参考>  
  筆者は父の運転するクルマで一度だけ、"観光地・大滝宿"に行ったことがある。
  まだ寒い春の初め、風は強いがよく晴れた日だった。
  おそらく大滝橋付近からだろう、前方右側に大きな建物と、その前に掲げられた4本ほどの高い幟が見えてきた。
  派手な幟は強い風に煽られて翻り、演歌だったかお囃子だかの割れた音がスピーカーから流れているのが聞こえた。
  いかにも良くありそうな観光地の風景なのだが、決定的に違うのは人の気配が全くないこと。
  観光客はおろか、店の従業員も見当たらない。
  古風な芝居小屋、派手な幟旗、強い風、垂れ流される演歌。 -------でも人がいない。 ひとりもいない。
  近づいたら帰れなくなるような、悪い夢を見てるような怖さを感じて「帰ろう」と言うと、誰も反対することなく引き返した。
   
 
  当時の私が見た光景はこれに近いと思われる
コンクリート電柱の右側に件の幟旗がわずかに写っている
各電柱に付けられた「江戸の町 大瀧宿」のポスターが目立つ
芝居小屋「萬世座」に改修され、そのまま放置されている旧太見家
言うまでもなく、手前の砂利道は旧国道13号である
(現在は市道長老沢線)  
2013.06
     
  太見家の向かいに建つ須田家は食堂「大瀧屋」に改修された
かつて馬宿を営んでいた屋敷だけあって、大きな家構えであった
  「ふくしまの峠」より転載  

国道13号・西川橋から旧国道13号・西川橋を見下ろす。
昭和41年にバイパスが開通するまで、この細道が福島と米沢を結ぶ唯一の車道だったのだ。
セダンもトラックもバスも、皆この道を通っていた。
 
しかし積雪のため、1年の半分は閉鎖される国道であった。
 
 
 
 
 
 
2004.05

 

・このレポートは以下の皆様のご協力を元に作成されました。

 「わが大滝の記録」 紺野文英様

 「万世大路研究会」 鹿摩貞男様

 大滝会の皆様

                 
  [TOP]  [寄り道]        関連記事   [明治期の万世大路・大平宿]  
              [山深い鉱山跡に創設された私立学校]  
  <<無断転載不可>>              

 

  <参考資料>
   
  「払下願出人連名簿」51のうち、定住世帯28(○印)に名があるが、S10地図には記載がない世帯  黒津、梅津、赤井、半田、宮田、早坂、高見、八木沼
  同上、定住しなかった世帯(○印なし) 丹治、中林、角田、横沢、野嵜、近野、大橋、村島、西坂、村上、本間、阿部、菅藤
  大滝出身者名簿に丹治姓あり(旧姓後藤)
  中林は大滝で旅籠をしており、M30代初めまで住んでいたとのこと。 位置は不明 (→こちら
  ・飯坂の角田商店も大滝産木炭の仲買をしていた(読みはカクタ) 現存
   
  「昭和初期の養蚕農家」に名があるが、S10地図には記載がない世帯 熊坂
  「大滝出身者名簿」に名があるが、地図には記載がない世帯 西山、丹治(旧姓後藤とのこと)、須田正見
   
  人力車(大滝以東は1人引き、以西は2人引きだった) 宮内屋で仲介、斡旋か 他の旅籠でも?
   
 
  湯殿山碑(M36)に名があるが
地図や名簿に記載がない姓
  「払下願出人連名簿」(M27)は誤記か
  大槻伊三郎    
  高橋惣四郎 (米沢・高橋昭平氏縁者か    
  高岩初太郎   初太郎
  黒須春吉   春吉
  横澤亀吉   亀吉 (誤記ではない)
  山口鶴吉 (山岸家に鶴吉という祖先あり)   岸友吉 (参考)
       
  山田晋吉(S10小林家の居候・山田源次郎の縁者か)    
  石工 ○○    

  飯坂警察分署 森元源吾巡査    
  氏は嘉永元年七月 西白河郡白河町森元万六氏の    
  男として生る。 明治八年十一月福島県四等巡査を    
  拝命。 同十九年十一月飯坂分署勤務となり二ツ小    
  屋註在所に服務す。 同二十一年一月四日囚人を   註→駐
  護送して飯坂分署に出張。 翌五日帰任の途中信夫    
  郡中野村字石小屋地内山中に於いて六尺を越ゆる    
  猛雪に遭難。 凡ゆる捜査も効なく五月一日に至り   あらゆる
  死体として発見さる。 享年四十一歳。 因に森元   数え年 満39歳
  家は代々白河藩の剣道指南をして居り先代森元    
  一刀太は小野派一刀流の達人であった。    
  昭和三十五年    
  九月二十六日建之 発起人中野地区防犯協会    

 

  飯坂警察分署 森元源吾巡査
  氏は嘉永元年7月、西白河郡白河町森元万六氏の男として生る。
  明治8年11月福島県四等巡査を拝命。
  同19年11月飯坂分署勤務となり、二ッ小屋註在所に服務す。
  同21年1月4日囚人を護送して飯坂分署に出張。
  翌5日帰任の途中、信夫郡中野村字石小屋地内山中に於いて六尺を越ゆる猛雪に遭難。
  凡ゆる捜査も効なく、5月1日に至り死体として発見さる。享年41歳。 
  因に森元家は代々白河藩の剣道指南をして居り、先代森元一刀太は小野派一刀流の達人であった。
  昭和35年9月26日建之  発起人中野地区防犯協会
   
  森本万六 森元一刀太 は源吾の父にして同一人物か。 森元確斎は祖父か

 

  寛政12年 1800 森元岩之助 養子入り及び家督相続 旧姓・太幡     学習院大所蔵「分限帳」
  天保12年 1841 森元確斎 隠居して「確斎(?)」に改名 不鮮明    
  森元某 嫡子(名不明)が家督相続      
  天保14年 1843 森元某 某が曾祖父の名「与太夫」に改名      
  弘化4年 1847   斉藤新太郎が森元確斎と会う        
 

嘉永元年

1848   森元源吾、生まれる     父は「万六」  
  嘉永2年 1849 森元与太夫 一刀流剣術世話仰せつけられる      
 

安政元年

1854   長男 喜一 二男 与市 三男 騰市  四男 左市   確斎は既に故人
  安政2年 1855 森元与太夫 御武具奉行 高100石   源吾7歳 「白河市史7」P196
  慶応2年 1866 森元与太夫       源吾18歳
  明治4年 1871 森元万太 剣道師範御使番 120石   「万六」の誤読か 「矢吹町史」P170

 ◆祖父・岩之助=確斎   ◆父・与太夫=万太=万六=一刀太


 

移設協力

 

(副碑裏面)

         

大滝関連

  交通安全協会   飯坂支部            
  猟友会   飯坂支部           大滝住民と協力して猟をしていた
  櫻井運送   櫻井元七   飯坂町湯野字暮坪24   元は文具店 湯野電気索道の終点付近    
  旅館 清山   山岸清作   飯坂町中野山岸7        
  丸中白土   紺野四郎   飯坂町中野蛭田66   賃金支払者総代人:紺野倉治の子    
  飯坂アポロガス   篠木勝司   飯坂町八景6-17        
  映電社   佐藤圧平   飯坂町梅津4-1        
  木村酒店   木村喜一郎   飯坂町中野字東森21-2   中野小学校前   木村本家の子孫
  サンレディ   渡辺定男   飯坂町平野下ノ檀2-4   円部出身 婦人服縫製業 代表取締役 渡辺正二    
  半田運輸整備   半田久三郎   飯坂町平野字殿田82   半田俊朗社長 2007年破産   西村屋子孫か
  ホテル聚楽       飯坂町西滝ノ町27        
  トーアエイヨー   福島工場   飯坂町湯野田中1   片倉財閥    
  真言宗 新狐山   不動寺   飯坂町湯野寺町3   巡査の墓があるのか    

 これらの人や団体に、どのような横の繋がりがあるのだろうか。


    昭和8年6月1日現在の従務員         「福島県直轄国道改修史」より抜粋

大滝関連

       
  ・工夫 渡辺又治 尾形力 星野定吾 小沢常蔵 小野広吉  
  ・機械工 山岸正 浜津治男  
  ・運転手 長嶋金治 村田忠治 鈴木精一 後藤信次 石幡伝   
    内藤常雄 本田惣吉 大内功 今野通 丹治房吉  
  ・工夫 佐藤留作 亀岡邦雄 阿部政吉 亀岡安雄 渡辺喜蔵 宍戸栄   
    村上藤市 八巻善之助 野崎重雄 本田正一 相原捨蔵 野嵜久吉
  ・炊事係 後藤留吉  
  ・賃金支払者 総代人 紺野倉治(中野村) (丸中白土社長・紺野四郎氏の父)  
    支払人 佐藤武雄 (後に大滝分校の教師になる)(青葉学園生徒の里親になる) 佐藤c
       
    緑文字 後に建設省福島工事事務所職員(大滝住人ではない)  
       

  <鳳駕駐蹕之蹟>    
       
   
   

2004.11

 
  二ツ小屋隧道・南坑口に現存する「鳳駕駐蹕之蹟」の石碑。(ほうがちゅうひつのせき)
  明治14年(1881)に行われた明治天皇東北巡幸の際、当時ここにあった県土木出張所にて休憩したことを記念し、
  明治41年(1908)9月に建てられた。(昭和の改修の際、現位置に移設)
  左側面には「明治十四年十月三日 御通輦」とあり、右側面には判読不明の文字が刻まれている。
  「明治天皇御巡幸録」(昭和11年刊)によると、中野吉平の和歌」とのこと。
  「飯坂湯野温泉史」(大正13年刊)を書いた人物と同じだろうか。
   
  記念碑は旧中野村内に合計3箇所建てられた。 他の2箇所は前出の大滝と、もう一つは円部である。
   
  場所   左側面   正面   右側面
  二ツ小屋隧道   明治十四年十月三日 御通輦   鳳駕駐蹕之蹟   (和歌)
  大滝   明治四十一年九月十二日建設   鳳駕駐蹕之蹟   明治十四年十月三日 御通輦
  円部   明治四十一年九月十二日建設   鳳駕駐蹕之蹟   明治十四年十月三日 御通輦
         
    "隧道"と"円部"は楷書だが、"大滝"は行書。

和歌のある"隧道"だけ「御通輦」が左側にある。

和歌以外の側面のフォントは3基共通のようだ。

"円部"の風化が特に著しい。

  大滝 円部   2013.06

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              [山深い鉱山跡に創設された私立学校]  
  <<無断転載不可>>