明治期の万世大路・大平宿 (福島県福島市) 2013.12 作成 2015.08 公開 [TOP] [寄り道]
・「万世大路・大滝宿の住宅と生活」の続き
資料が非常に乏しく、ほとんど謎であった大平宿であるが、明治期の大滝宿の資料を探す過程で、大平宿に関する公文書が発掘された。 | |
今回、その貴重な資料を提供して頂くことができたので、解析してみた。 | |
まず「大平引受書類」と題される古い公文書だが、これは明治22年(1889)4月の村制施行の際、 | |
大平宿を含む地域(杭甲岳・兎沢・上小川・与平沢の4地区)が茂庭村から中野村に編入されたことに伴って中野村役場が作成し、 | |
中野繁蔵村長より信夫郡長・田中章に提出された文書と見られる。 (田中章は三島通庸・福島県令が連れてきた元薩摩藩士) | |
この書類は、編入エリアを示す略図の他、大平宿の住人名簿、集落の平面図などが含まれる、貴重なものであった。 | |
中でも「宅地として貸与すへき地点 岩代國伊達郡茂庭村字大平ノ内杭甲山」の項には、住所、面積、戸主名が列記されており、 | |
さらには地籍図も添付されていたので、この2つを合わせることで当時の住宅地図を作成することができた。 | |
掲載は世帯主の住所氏名のみなので、残念ながら家族構成や職業・屋号などは分からない。 | |
記録によると旅籠や運送業を営んでいたとのこと。 | |
「大平引受書類」 明治22年 | 「福島県歴史資料館」蔵 | ||
西 |
|||
東 |
|||
撮影:大滝会 渡辺文朝氏 |
以上の資料を元に、住宅地図を作成してみた。
西 |
||||||||
大平宿 |
明治22年 |
備考 |
||||||
米沢↑ |
||||||||
栗子山隧道 | ||||||||
番地 | 番地 | |||||||
追願者貸与地 | 13 | |||||||
宮本立之進 | 12 | 14 | 渋谷庄右衛門 | |||||
佐藤庄兵衛 | 11 | 15 | 物貨継立点々用地 | → | 「陸運物貨継立所」のことであろう | |||
浦井只見 | 10 | / |
(大滝宿では二階堂家が担っていた) | |||||
佐藤亦蔵 | 9 | / 滑 |
||||||
斉藤鶴松 | 8 | | 谷 |
||||||
猪口源五郎 | 7 | | 沢 |
||||||
南 | 荻原冨右衛門 | 6 | \ |
北 | ||||
■■■■■■■■■■ | ■■ |
小道 |
||||||
中島清三郎 | 5 | 16 | 山田小次郎 | |||||
移住追願者貸与地 | 4 | 17 | 佐藤円蔵 | |||||
小山運次郎 | 3 | 18 | 笠原乕之助 | |||||
皆川嘉重 | 2 | 19 | 渡辺清次郎 | |||||
小道 |
■■ | ■■■■■■■■■■ | 幅1間の道 | |||||
移住追願者貸与地 | 1 | 20 | 皆川金之助 | |||||
21 | 我妻又右衛門 | |||||||
二ッ小屋隧道 | ||||||||
大滝を経て | ||||||||
至る福島 ↓ | ||||||||
東 |
||||||||
番地 | 氏名 | 明治2年時の肩書 | 左同 禄高 | 年齢 | 備考 | ||
3 | 小山運次郎 | 雷撃隊 二番隊 | 2俵 | 24歳 | |||
6 | 荻原冨右衛門 | 九番隊 御鉄砲足軽 | 1人扶持2石 | 28歳 | 「萩原」の誤読であろう | ||
7 | 猪口源五郎 | 会所番 元御弓 | 1人扶持2石 | 12歳 | 父が早世したのか、まだ少年の家長である | ||
9 | 佐藤亦蔵 | 十番隊 御鉄砲足軽 | 3人扶持2石 | 17歳 | 「安蔵」の誤読ではないか | ||
10 | 浦井只見 | 外張番 五番隊 隊頭 | 200石 | 46歳 | 元は与板組で、慶応元年当時は3人扶持7石と少禄だった | ||
11 | 佐藤庄兵衛 | 九番隊 御鉄砲足軽 | 1人扶持2石 | 38歳 |
萩原冨右衛門と同じ隊である | ||
12 | 宮本立之進 | 与板組 一番隊 半隊頭 | 50石 | 30歳 | 与板組とは直江兼続の旗本のこと。彼はその副隊長だった | ||
17 | 佐藤円蔵 | 二之大隊 二番隊 | 1人半扶持3石 | 32歳 | 分限帳では「圓蔵」 |
この8名を除いた9名も、姓は分限帳に記載があるので、元藩士である可能性が高いと見ている。 | |
分限帳には名前が載らない、武家の次男・三男だったのかも知れない。 | |
まあ、希望的観測である。 | |
昭和7年(1932)の廃村時に残っていたは6戸とのこと。 | |
この6戸が旧米沢藩士かどうかも検証してみよう。 | |
我孫子富蔵 | 両「分限帳」にも「引受書類」にも我孫子姓はない | X | ||
吾妻定 | 「慶応分限帳」に吾妻姓があるが、「明治分限帳」と「引受書類」にはない | △ | ||
笠原美雄 | 18番地に住んでいた乕之助の子孫だろうか | △ | ||
新保代次郎 | 「分限帳」には新保姓があるが「引受書類」にはない | △ | ||
羽賀運太郎 | 「分限帳」にも「引受書類」にも羽賀姓はない | X | ||
佐藤好造 | よくある姓なので断定は難しい。安蔵か円蔵か庄兵衛の子孫とも考えられる | △ |
というわけで、6名中4名に可能性を感じる程度で、断定するまでには至らなかった。 | |
なお、初代移住者のリーダーではないかと考えていた新保家は「引受書類」に載っておらず、明治22年当時には住んでなかったことが判明。 | |
元藩士かどうかすら判然としない結果となった。 | |
また、明治20年6月に作成された「陸運物貨継立営業者規約」を見ると、「大平:宮本立之進代理 浦井只見」とある。 (「福島の町と村II」より) | |
宮本家の向かいにある15番地にて、運送業を営んでいたのであろう。 | |
この2名は両「分限帳」にも「引受書類」にも記載されており、与板組というエリート出身で、しかも比較的高禄であった。 | |
この2名が大平宿のリーダー格だったと思われるが、両名とも昭和の廃村を待たずに大平を離れている。 | |
また、「明治32年3月に大平分教場が廃止された」との記述があった。 (「福島の町と村II」より) | |
大平には学校があったのだ!。 | |
場所は最も面積が広い13番地であろうか。 設置年は不明だが、おそらく大滝と同じ頃(明治23年)であろうと思われる。 | |
教師は学校に併設された宿舎にでも住み込んでいたか、それとも大滝辺りから通っていたのだろうか。 | |
学校があったこの10年余りが、最も繁栄した時期なのであろう。 | |
集落衰退の原因となる奥羽本線・福島〜米沢間の開業も、同じ明治32年の5月のことであるが、 | |
すでに大平の人口減は始まっていたようである。 | |
「分限帳」と「引受書類」の記述を合わせ、住宅地図に加筆、氏名の誤読を修正し、さらに年齢を追加してみた。 | |
赤文字は旧米沢藩士であると確認できたものである。 | |
「明治二年分限帳」では数えで12歳だった猪口少年が、32歳の壮年になっている。 | |
西 |
||||||||
大平宿 |
明治22年 |
|||||||
米沢↑ |
||||||||
栗子山隧道 | ||||||||
番地 | 番地 | |||||||
追願者貸与地 | 13 | |||||||
宮本立之進 | 50歳 | 12 | 14 | 渋谷庄右衛門 | ||||
佐藤庄兵衛 | 58歳 | 11 | 15 | 物貨継立点々用地 | ||||
浦井只見 | 66歳 | 10 | / |
|||||
佐藤安蔵 | 37歳 | 9 | / 滑 |
|||||
斉藤鶴松 | 8 | | 谷 |
||||||
猪口源五郎 | 32歳 | 7 | | 沢 |
|||||
南 | 萩原冨右衛門 | 48歳 | 6 | \ |
北 | |||
■■■■■■■■■ | ■■■ |
■■ | 小道 | |||||
中島清三郎 | 5 | 16 | 山田小次郎 | |||||
移住追願者貸与地 | 4 | 17 | 52歳 | 佐藤円蔵 | ||||
小山運次郎 | 44歳 | 3 | 18 | 笠原虎之助 | ||||
皆川嘉重 | 2 | 19 | 渡辺清次郎 | |||||
小道 |
■■ | ■■■ | ■■■■■■■■■ | |||||
移住追願者貸与地 | 1 | 20 | 皆川金之助 | |||||
21 | 我妻又右衛門 | |||||||
二ッ小屋隧道 | ||||||||
大滝を経て | ||||||||
至る福島 ↓ | ||||||||
東 |
誤読を修正の上、地籍図にも名前を書き込んでみた。
この図により、明治中期の大平宿の様子がより立体的に見えてきた。
「栗子トンネル工事誌」より転載 |
|
上図は万世大路・昭和の大改修の際に作成された、大平の路線実測図である。 | |
道路拡幅(盛土して路面を5m嵩上げ)により宅地が潰地となるため、昭和7年(1932)に残っていた全6戸の退去が命ぜられ、 | |
その全世帯が大滝に転居した。 | |
世帯主は、我孫子富蔵、吾妻定、笠原美雄、新保代次郎、羽賀運太郎、佐藤好造、である。 | |
斜線が入れられた四角は、当時現存していた住宅や倉庫、作業小屋と思われる。大小様々である。 | |
国道南の西側一帯が暮らしやすかったのか、家屋の残存率が高いようだ。 | |
栗子山隧道の改修工事は昭和9年(1934)春に着手されるのだが、現場の施設が整うまでは大平の廃屋を再利用していた。 | |
民家4軒、炭小屋7軒を改修し、現地事務所や宿舎としていたとのこと。実測図を見ると、残っていた建物のほとんど全てを利用したようだ。 | |
ここから1.2km離れた栗子山隧道の改修工事現場まで歩いて通っていた。 | |
昭和9年(1934)に撮影された大平宿の貴重な写真。 廃村となって2年が経過した姿である。 意外と大きな建物が、道路(言うまでもなく国道・万世大路である)の両側に並んでいる。 中央の人物の奥にトラック、その奥は木橋だった頃の大平橋だろうか。 正面の山は、国土地理院図には名のない1202m峰であろう。 その左の鞍部下を栗子山隧道が貫いている。 |
|
HP「わが大滝の記録」より転載・加工 |
あまり意味のないお遊びであるが、明治の地籍図と昭和の実測図を、推測を交えつつ合わせてみた。 | |
笠原家は既になく、空地になっていたようなので、 | |
集落内での転居がなかったとすると、昭和7年に大滝に移住した笠原美雄は米沢藩士の子孫ではないことになる。 | |
一方、佐藤家は3軒とも残っているので、佐藤好造は3家いずれかの子孫である可能性が考えられる。 | |
佐藤好造の名は、大滝の山神神社に現存する、明治36年(1903)の銘がある湯殿山碑に刻まれている。 | |
当時、大平に住んでいた彼は大滝の人々と一緒に湯殿山に参拝し、その記念として石碑を神社に奉納したのであろうか。 | |
その彼も、昭和7年には笠原ら大平住民と共に大滝に移住することになるのだが、 | |
笠原美雄は昭和30年代までに大滝を去り、佐藤好造も昭和51年までに転出している。 | |
[TOP] [寄り道] | 関連記事 | [万世大路・大滝宿の住宅と生活] | ||||||
[山深い鉱山跡に創設された私立学校] | ||||||||
<<無断転載不可>> | ||||||||