震災で被害を受けた建築物や文化財。 その定点観測結果の記録。 | |
<郡山市>
ORJの23号(2008年3月)にて、「今月の煉瓦」として掲載されたレンガ塀である。
明治期に建設された製糸工場の外壁であった。
2008年3月
ただでさえ希少なレンガ建造物が跡形もなく消えてしまった。
レンガの粉で赤く染まった地面が悲しい。
2011年4月
ここに赤レンガの塀があったことなど忘れ去られそうだ。
2012年7月
ここはORJの40号(2009年8月)の「新町軌道」で少し触れている。
2008年10月
家の外壁にレンガがぶつかった痕が見える。
この民家には「危険」の赤紙が貼られているから、やがて消える運命だろう。
2011年4月
赤紙が一部だけ剥がれずに残っていた。
2012年7月
2008年10月
2011年4月
右端の欠落部分を新しいレンガで補修し、その上にフェンスを乗せている。
製糸工場のレンガ塀で、今でも残っているのはここだけになった。
2012年7月
幕末の郡山宿には35軒の旅籠があり、それぞれが飯盛り女を置いていた。
しかし風紀上の問題から明治34年(1901)、街から離れた場所に移転させられる。
郊外に新しい遊郭街「相生町」が作られ、その入り口には大きな門扉が据えられた。
遊郭がなくなった現在でも、その門柱だけが残されている。
2008年10月
震災とは関係なく、以前より危険視されていた可能性もあろうか。
撤去されるのも時間の問題だろう。
背後に見えるマンション屋上の看板も文字が欠落している。
2011年4月
赤紙はなくなり、地元の方が貼った「キケン」に変わっていた。
近接するホテルを解体していた方に伺うと、現在撤去方法について検討中とのこと。
移設ではなく破棄されるとのお話だった。
間もなく明治の遺構が消える。
2011年8月
なぜだか三角コーンだけが残されていた。
2012年7月
旧安積郡役所の入り口に「明治天皇駐蹕之處」の石碑がある。 (ちゅうひつ)
明治天皇は明治9年、14年と2回の東北行幸の際、ここに立ち寄っている。
その記念碑である。
2010年8月
2011年4月
桜が散り、雨に濡れていた。
開成館自体も被災し、現在も閉鎖されている。
2011年4月
ORJの60号(2011年4月)や復興支援号にて取り上げた倒壊マンションのその後。
2011年4月
ようやく建て直しの工事が始まったようだ。
建て直すのではなく、均して駐車場にしただけだった。
修復の順番待ちが解消されたのか、奥のビルでもやっと工事が始まったようだ。
近づいて見てみたら「解体工事」と書かれてあった。
あの建物も消えるようだ。 街のどんどん景色が変わって行く。
ここも、ORJの60号(2011年4月)や復興支援号で取り上げた県道である。
しかしうっすらと段差が見えている。
レンガ風外壁のコンクリート製に見えるが、実は木造である。
県の近代化土木遺産にも登録されていた。
2007年8月
基礎すら撤去されて更地になっている。
被災していたとは全く気付かず、完全に見過ごしていた。
安積開拓を象徴する建物だっただけに、残念でならない。
貴重な建造物たちが、ニュースにすらならないまま消えて行く。
2011年8月
元は街道沿い(画像奥)にあったものを裏口に移転したとのこと。
2008年4月
明治初期の測量事情を示す遺構として貴重なものであった。
几号水準点は →こちら
震災でどうなったか気になっていたが、撤去されて基礎だけになっていた。
2011年8月
柱に張り紙の跡が見える。おそらく「危険」の類であろう。
と言うことは倒れたわけではなく、傾いた程度で済んだのだろうか。
分解されたパーツ自体に損傷はないように見えた。
鳥居再建の予定はあるのだろうか。
2011年4月
ビルが撤去された跡は、オーナーらしき民家の花壇になっていた。
2015年5月