道具の話23・最近読んだ幕末・維新関連本       2018.02      [TOP]  [物欲]


  (※2016.01作成 2018.02公開)   毎日ワンズ 毎日ワンズ 歴史春秋社    
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2016.01

  2012年 初版 2015年 改訂増補版 2015年 会津版    
  「明治維新という過ち <会津版>」  原田伊織  歴史春秋社  平成27年(2015)
  幕末や明治の会津について調べたり本を読んだりするたびに、かねがね薩長やら明治政府やらに腹が立っていたのだが、
  その鬱憤を晴らしてくれるような本は数は極めて少なく、また、満足できるような内容でもなく、長年悶々としていた。
  そこで、「吉田松陰ってテロリストだよね」、
  松下村塾で後継者となるテロリストたちを大勢育成したよね」、
  「御所に向けて大砲を撃つだけじゃなく、ついには天皇を毒殺したよね」、
  「その凶悪なテロリストたちが中心となって樹立されたのが明治政府だよね」、
  「そいつらが日本の伝統文化をどんどん壊し、果ては全土が焼け野原になり、国家存亡の危機になるまで止めなかったよね」。
  という筋書きの文を自力で書こうと考え、資料収集に掛かったのだが、思ったように集まらず挫折したのが数年前。
  逆に、賛美する本なら幾らでもあるんだけどな・・・。
   
  そんな中で出合ったのが、この本だった。
  筆者である原田氏も私と似たような感慨をお持ちだったようで、無能な私と違い、こうして一冊に纏め上げてくれた。
  なんと言っても副題が「--- 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト ---」だもんね。
  "そのままズバリ"の小気味良さである。
 
  2012年に初版が発売されたのだが、誤解による的外れな批判が多く、またNHKが大河ドラマにて吉田松陰をドラマ化することもあり、
  2015年に<改訂増補版>を出版することになった、とのこと。
  ほぼ同時に、全く別の出版社である歴史春秋社からも<会津版>が出版されているが、その経緯は不明。
  歴史春秋社は、現在でも長州への遺恨が残る会津地方を拠点とする地方出版社ゆえ、この本に飛びついた気持ちは大いに理解できる。
  私が読んだのは、この会津版である。 内容は改訂増補版と同じであるようだ。 OEMみたいなものか。
   
  あまり先入観があっても宜しくないので、できるだけレビューは読まないようにしているのだが、我慢できずに読んでしまった。
  これが、賛否両論があって非常に興味深いのだ。 特に「否」が面白い。
  ある人は、「戦後の反日教育を受けて育った左翼による自虐史観の本だ」と、某巨大掲示板で良く見るテンプレ台詞で罵り、
  またある人は、「会津で売れていると聞いた。もう福島を支援しない」と、
  "坊主憎けりゃ袈裟まで憎い"を地で行くような、幼稚なコメントをしていて失笑してしまった。
   
  さて、その中で「つくしん坊」という方が、本書の趣旨を要領よく箇条書きにしてくれていたので、さらに簡略化した上で引用させていただく。
   
 
(1) 「明治維新」とは、長州を中心とした未熟なテロリスト集団が行った「極右暴力革命」である。
  その陰謀好き、暴力的、対外侵略的という基本的性格は、日本の近代史全体を貫通している。
   
(2) 薩長勢力は「尊皇攘夷」を旗印としていたが、「尊皇」は建前に過ぎず、権力奪取のために天皇を利用したに過ぎない。
  御所を砲撃するという前代未聞の事態を引き起こしたのは長州藩である。
   
(3) 権力を奪取した薩長勢力は下級武士が中心だったため、日本固有の文化遺産への敬意は微塵もなく
  大規模に「廃仏毀釈」を行う一方で、西洋の文物には無条件に節操なくひれ伏した。
   
(4) 幕府には優れた人材が多かったが、肝心の将軍・徳川慶喜が臆病かつ暗愚で、決定的な時点での意思決定を誤った。
   
(5) 徳川慶喜による「大政奉還」後に事態が収束しなかったのは、
  西郷隆盛が設置した赤報隊によるテロ活動があまりに非道であったためで、これが戊辰戦争のきっかけとなった。
   
(6) 吉田松陰がやたら持ち上げられているが、彼は長州の過激な若者グループのリーダー気取りであったに過ぎない。
  思想家、教育家とはほど遠く、現在まかり通っている虚像は、彼の処刑後に久坂玄瑞や山縣有朋らがでっち上げたものである。
   
(7) 松陰も影響を受けた水戸学は、徳川光圀の誇大妄想に始まる。
  光圀は『大日本史』という荒唐無稽な歴史書を作ることで、藩の財政を消耗させた。
  誇大妄想の悪しき伝統は、九代藩主・徳川斉昭の時代に幼稚で過激な攘夷思想となって爆発。
  この水戸学の狂気の思想に吉田松陰が感化され、やがて長州テロリストグループの思想的な拠り所となった。
   
(8) 西軍は指揮官に武士道精神とは無縁のならず者を起用し、兵たちに略奪・強姦など暴虐の限りを尽くさせた。
  それが奥羽越諸藩の怒りを買い、無意味な戦争に突入する契機となった。
   
  ・・・・と、、、こんな刺激的な内容の本であるらしい。 そりゃあ読まずにはいられませんですわな。
 

つづく

  2017.08 Amazonにて中古本を入手 「非常に良い」が送込600円ほどで買えた

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2018.02

  単行本 文庫本      
  「幕末維新史の定説を斬る」 中村彰彦 講談社   平成23年(2011年)
  本書は三章に分かれており、ここでは第三章の『孝明天皇は「病死」したのか』を取り上げる。
  これだけで、ほぼ半分のページを占めているのだ。
   
  同じ作者が2001年に書いた「白虎隊」(文春新書)は当時話題になり、私も新刊で購入し、以降何度も読み返している。
  また、古い本(1977)だが、佐々木克「戊辰戦争」(中公新書)も繰り返し読んだ維新関連本の一つである。
  が、本書の中で中村は、佐々木を痛烈に批判している。
  佐々木は「戊辰戦争」の重版(1990)にて「追記」を加えているのだが、
  その「追記」にて佐々木が自説を撤回している点について、"転向"とか"軽い"などと徹底的に非難していて驚かされた。
   
  さて、以下に天皇の死因を巡る論争の概略を述べる。
  昭和15年(1940)、医学博士で歴史にも明るい佐伯理一郎が例会にて、
  「孝明天皇が疱瘡(天然痘)に罹患したことを好機と捉えた岩倉具視の指示により、実妹の女官・堀河紀子が毒を盛った」と発言。
  この演説を、弟子筋の中野操が昭和28年(1953)出版のエッセイにて文章化した。
  その翌年、歴史学者のねずまさし「歴史学研究」にて「孝明天皇は病死か毒殺か」を発表し、ヒ素による毒殺であったと結論付け、
  佐伯による「岩倉が黒幕、堀河が実行犯説」も踏襲した。
   
  昭和50年(1975)には、当時孝明天皇の典医だった伊良子光順の拝診日記が、その子孫でやはり医師の光孝によって公開される。
  当初、光孝は毒殺論者を嗤い、「尊王主義者が天皇を毒殺するとは考えられない」と盲目的に信じていた人物で、
  毒殺説を否定し、病死説を推すことを目的として公開する予定だったようなのだが、
  父の日記を読み込むに連れ、しだいに毒殺説へと傾いて行ってしまった。
  日記の内容は、直接死因には触れてないものの、ヒ素中毒を思わせる症状が、客観的かつ克明に描写されていることに気付いたのだった。
   
  ところが平成になって、歴史学者の原口清「孝明天皇の死因について」(1989)、「孝明天皇は毒殺されたのか」(1990)を発表し、
  医学的な見地から、毒殺説は誤りで、死因は疱瘡による病死である、とした。
  この論文は「これまでなかった科学的で緻密な考証」と評価され、その影響は非常に大きく、
  毒殺説から病死説に転ずる専門家すら続出し、以降「定説」として広がることになった。
  前述した佐々木もこの原口説を信じ、すぐに自説を撤回。自著に追記したわけである。
   
  しかし、平成8年(1996)、歴史学者の石井孝「近代史を視る眼」にて原口による病死説に反論。
  「史料を極度に歪曲し、予断に合致させるという空しい努力を重ねている」と批判し、
  原口説を"緻密な考証"どころか、「予断、強引、曲解、無視、歪曲」と徹底的にこき下ろした。
  当時、両者の間で激しい論争になったという。
   
  本書も石井とほぼ同じ論説を採る。
  原口の誤認や矛盾点を容赦なく羅列し、史料を元に毒殺であることを立証している。
  つまり、孝明天皇は疱瘡に罹患したが、医療チームの懸命な処置によって次第に快方に向かい、完治寸前となった。
  しかし、ヒ素を盛られたため、激しい下痢をおこし、血を吐き、胸をかきむしって悶え苦しんだ末に絶命した。
  また、佐伯の「実行犯は堀河」説については、当時堀河は御所から追放されていたため、「断じて成立しない」としている。
  「岩倉が黒幕」と推定しているが、実行犯については女官17人の内の誰か、と特定はしてない。
   
  以上が本書の概略。以下は私見。
  現実は「尊王の志士」とは全く逆の、天皇を暗殺したテロリストであり、
  明治維新とは、そんなテロリスト達による残虐な暴力革命であり、
  明治政府の中枢は、テロの主導者達によって構成されていたわけだ。
 
  (追記) 2019.04
  単行本から4年後に発売された文庫本を購入。 ヤフオクにて送込198円だった。
  手元に置いておきたいのと、改訂や追記、単行本への反響などの記載を期待していたのだが、
  どうやら、そういうのは無いようだ。
   

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2018.02

           
  「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実」 野口信一 歴史春秋社   平成29年(2017年)
  会津には長州に対する根深い遺恨があり、戊辰戦争後から現在に至るまでの150年間、ずっと仲が悪い。
  その原因は複数あるのだが、その一つが、
  「会津戦争終了後、長州の命令で半年間も戦死者の埋葬を禁じられたため、城下町は目を覆いたくなるような惨状となった」、というものである。
  私もそれを信じていたのだが、実は戦後置かれた民政局なり、中央政府なりが「禁止令を出した」という証拠を見たことがない。
  本書は、最近発見された新史料を元に、「埋葬禁止令など出してない。それどころか、埋葬するよう通達を出していた」、
  との新事実を明らかにしたものである。
  私にとっては"不都合な真実"なのだが、だからといって無視することもできないので読んでみた。
  なお、本書は発売後すぐに完売してしまい、今のところ再版もされてないようだ。
   
  ちなみに、前節で紹介した中村彰彦も「白虎隊」の中で「明治2年2月末まで埋葬を許さなかった」ことを「事実」としているから、
  「埋葬禁止令」説がどれだけ浸透し、定説となっていたかお分かりだろう。
   
  この本が取り上げた新史料とは、「旧藩御扶助被下候惣人別」「戦死屍取仕末金銭入用帳」なのだが、メインは後者である。
  旧会津藩士が所蔵していた古文書で、その内容は、戦死者埋葬に関わる日々の金銭支払い明細、及び埋葬の記録である。
  戦死者の発見場所、服装や状態の他、埋葬場所、人数、と詳細に記された、まさに"決定的証拠"と言えよう。
  まずは年表化して、アタマの中を整理してみる。
   
 
明治元年 (1868) 8月23日   西軍が城下に侵入したため、鶴ヶ城にて籠城戦開始。郭内外では老人や婦女子が相次いで自刃する
    9月22日   1ヶ月の籠城戦を経て、ついに降伏
    10月1日   占領軍により民政局が設置される
    2日   民政局が戦死者の埋葬を通達
    3日   会津藩士4人の指揮で、捜索・埋葬作業を開始
    17日   埋葬終了 (64ヶ所 567人)
明治2年 (1869)

2月

  改葬が決定
    2月24日   阿弥陀寺への改葬開始
    4月22日   阿弥陀寺への改葬終了 (1281人)
   
  つまり、最近この「入用帳」が発見されるまで、明治元年10月に埋葬の通達があった、という事実が後世に全く伝わっておらず、
  その一方、翌年2月に阿弥陀寺へ埋葬された件は広く知られていたため、
  「籠城戦が始まってから阿弥陀寺への埋葬までの半年間、戦死者が野晒しにされた」、との思い込みが生じたようだ。
   
  しかし、戦死者の野晒しが全くなかったかというと、そんなことはない。
  例えば家老・西郷頼母邸では、一族21人が8月23日に自害してるから、10月上旬に埋葬されるまで1ヶ月以上放置されていたことになる。
  「入用帳」によると、西郷邸で発見された遺体は既に白骨化しており、そのため人数も「5、6人」とはっきりしない。他の14、5人については不明である。
  よって、確かに"半年間"ではないものの、戦死者が白骨化するまで放置されていたことに違いはなく、
  そんな惨状を城下のあちこちで目撃した会津の人々の中に、西軍に対する憎悪が生じてもおかしくはない状況だった。
   
  また本書では、「埋葬禁止令」説が広まった時期を「昭和40年頃」とした上で、初めて文章化されたのは、
  昭和41年(1966)発行の「戦死之墓所麁図(復刻版)」(会津士魂会刊)に添えられた「まえがき」ではないか、としている。
   
  では、なぜ「長州憎し」なのか。
  会津には、長州の策略で朝敵、賊軍の汚名を着せられた上、回避可能だった戦争を強引に仕掛けた末に、会津を破滅に追い込んだ、
  といった強烈な遺恨が今でもある。
  ところが、長州の兵士は戦後すぐに引き揚げたため、会津には残ってなかったという。
  また、2月の改葬に関して、「罪人塚に埋葬すること。作業は賤民にさせること」との条件が示されていたのだが、
  戦死した同僚を罪人扱いする通達は、残った会津藩士にとって到底受け入れ難いことであった。
  民政局との粘り強い交渉の結果、罪人塚への埋葬の方は撤回されたのだが、「作業は賤民にさせる」方は撤回させることができなかった。
  つまり、藩士や町人による埋葬は"禁止された"わけである。
  これも、「埋葬禁止令が出された」との誤解が広まった一因と思われる。
  また、民政局は当然、東京の新政府の指示で動いていたわけだから、その中枢を占めていた長州閥に対する恨みもあったのだろう。
  後に、会津藩を不毛の地に追放した木戸孝允もまた長州人であった。
   
  本書の筆者は福島県生まれの人で、会津若松市立図書館の館長まで務めた方なのだが、「長州との友好」を提唱している。
  今回、「埋葬禁止令」がデマだったことが判明したものの、長州嫌いの理由は以上のように複数あるため、和解はそう簡単ではなかろう。
  というか、不可能なのではなかろうか。
  ためしに、「会津こそ正義で、実は薩長が賊軍だった」という"正しい"歴史教育を150年続け、会津人が舐めた苦渋を体験し、
  それから改めて握手を求めてみては如何だろうか。
  「萩の街を焼き払って焦土とし、市民全員無人島にでも引っ越してみな」、とまでは言わないからさ。
   
  「やらなくても良かった戦争を無理矢理仕掛け、双方に多大な被害を与えてしまってすいませんでした」、と、
  「賊軍は会津じゃなくて長州でした。ウソ吐いてすいませんでした。天皇を毒殺してすいませんでした」、と認めて謝罪すること。
  それらの正しい史実を教科書に載せて、子供たちに学ばせること・・・かな。
   

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