江戸時代になって街道の整備が始まると、宿駅には枡形や木戸が設置されるようになった。 |
枡形とは、道路をクランク状に曲げて外敵が侵入しにくいようにしたもので、 |
周囲は土塁や石垣で固められ、有事の際に敵を迎え撃てるようになっていた。 |
枡形には木戸を設置して交通を遮断できるようになっており、夜間は閉められていた。 |
木戸脇には番屋が置かれ、木戸の開閉や不審者の出入りを監視していた。 |
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江戸初期は「1期」の範囲が郡山宿で、この南北端に枡形が設置されていた。 |
しかし約80年後、人口が増加して街が枡形の外側にまで広がったため、土地改良事業を実施。 |
同時に枡形の位置が「2期」へと変更され、郡山宿は南北に拡大した。 |
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発展はまだ止まらず、江戸後期の文政7年(1824)に、郡山は村から町に昇格する。 |
城下でもないのに町になった例は非常に珍しいとのこと。 |
この頃の郡山宿は、二本松藩の財政を支える重要な街になっていたのだった。 |
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町への昇格に伴い、南北の枡形に木戸門を設置することが許可された。 |
南の枡形は、さらに南側に移したところに新設され、 |
北の枡形は移設せず、強固なものに改築された。 これが「3期」である。 |
全額町人たちの出費で、815両余りかかって建設された。 |
枡形は石積みで、高さ6尺、縦7〜8間、横5間程の規模であったと記録にある。 |
明治10年(1877)に取り壊されるまで、路上にてその威容を誇っていた。 |
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1期 |
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慶長9年(1604)〜天和年間(1681-1683) |
2期 |
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天和年間(1681-1683)〜文政8年(1825) |
3期 |
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文政9年(1826)〜明治10年(1877) |
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