枡形位置の変遷から見る奥州街道・郡山宿の繁栄  (郡山市)  2016.01   [TOP]  [寄り道]


     
  現在では「福島県内随一の商業都市」と言われる郡山市。  
  その郡山だが、明治初期に国家事業として「安積開拓」が始まってから急速に発展し・・・、  
  としている資料や書物が存在し、地元の郡山市民ですら、そう信じている人が今でもいる。  
  しかし、郡山の繁栄は既に江戸時代から、しかも初期から始まっていた。  
     
  郡山歴史資料館にて、企画展「郡山宿の賑わい」(平成27年10月9日〜平成28年3月30日)が開催され、  
  先日見学してみたところ大いに触発されたので、郡山市発展の歴史を枡形位置の変遷から辿ってみることにした。  
  写真は2003年9月に撮影した古いものである。  
  <参照>奥州街道・郡山宿  

 
江戸時代になって街道の整備が始まると、宿駅には枡形木戸が設置されるようになった。 
枡形とは、道路をクランク状に曲げて外敵が侵入しにくいようにしたもので、
周囲は土塁や石垣で固められ、有事の際に敵を迎え撃てるようになっていた。
枡形には木戸を設置して交通を遮断できるようになっており、夜間は閉められていた。
木戸脇には番屋が置かれ、木戸の開閉や不審者の出入りを監視していた。
 
江戸初期は「1期」の範囲が郡山宿で、この南北端に枡形が設置されていた。
しかし約80年後、人口が増加して街が枡形の外側にまで広がったため、土地改良事業を実施。
同時に枡形の位置が「2期」へと変更され、郡山宿は南北に拡大した。
 
発展はまだ止まらず、江戸後期の文政7年(1824)に、郡山は村から町に昇格する。
城下でもないのに町になった例は非常に珍しいとのこと。
この頃の郡山宿は、二本松藩の財政を支える重要な街になっていたのだった。
 
町への昇格に伴い、南北の枡形に木戸門を設置することが許可された。
南の枡形は、さらに南側に移したところに新設され、
北の枡形は移設せず、強固なものに改築された。 これが「3期」である。
全額町人たちの出費で、815両余りかかって建設された。
枡形は石積みで、高さ6尺、縦7〜8間、横5間程の規模であったと記録にある。
明治10年(1877)に取り壊されるまで、路上にてその威容を誇っていた。
 
 
1期   慶長9年(1604)〜天和年間(1681-1683)
2期   天和年間(1681-1683)〜文政8年(1825)
3期   文政9年(1826)〜明治10年(1877)
     

     
  <南側(上枡形)の位置の変遷>  
 
1期、2期、それぞれの上枡形は、地図上でもその痕跡が確認できる。
3期上枡形は、現在では直線にしか見えないので省略した。
     
 
1期a
ここにあった上枡形は江戸初期に廃止されたはずだが、
現在でも道が屈曲していることがはっきり分かる。
右は行合道、左は中江道と呼ばれていた。
行合道は、県道65号小野郡山線の旧道に該当する。
 
かつてはこのクランクを、バスや大型トラックが身をくねらせながら通っていたわけだ。
現在は県道で、しかも一方通行となっている。
 
奥に、1999年に新築されたうすい百貨店のビルが見える。
うすいは寛文2年(1662)創業の老舗であるから、
ここに枡形があった当時から、あの場所で営業していたことになる。
     
 
2期a
天和年間、南に移設された上枡形の現状。
江戸後期に廃止されたはずだが、やはり道の屈曲が残っていた。
右は阿弥陀道、左は焼場道と呼ばれていた。
元禄2年(1689)に松尾芭蕉の一行が通過したのは、この枡形である。
 
近年になり、ここで交差する「文化通り」が拡幅されたため、
枡形跡の"クランク感"はかなり失われてしまった。
     
 
3期a
町への昇格に伴い、さらに南へ移設された上枡形の現状。
切り石積みの堅牢な石垣と木戸門があったはずだが、
道はそれほど屈曲してなかったのか、現在では直線道路となっており、
予備知識がなければ枡形跡であるとは気付かないだろう。
 
枡形の石垣は明治10年(1877)に撤去された。
     

     
  <北側(下枡形)の位置の変遷>  
 
1期の下枡形は地図上でも、その痕跡が確認できる。
2・3期の下枡形は線形が改良されたが、今でも屈曲が残っている。
     
 
1期b
ここにあった下枡形は江戸初期に廃止されたが、
現在でも道がやや屈曲していることが分かる。
     
 
2・3期b
天和年間に北側に移設され、後年、町への昇格の際に改築された下枡形の現状。
家屋の撤去により線形が改良されたが、今でもこれだけ屈曲している。
右側の建物は、一部が枡形跡の上に建っている。
 
ここの枡形は明治10年(1877)に撤去された。
     
 
同地点を反対側から見る。
こちらから見た方が、より"クランク感"が強い。
 
正面の建物は、一部が枡形跡の上に建っている。
 

     
  以下は余談。  
 
2・3期の下枡形跡を拡大してみる。
交通の障害となるクランク形状を改良すべく、努力した様子が分かる。
 
「安積街道」は、ここを起点として明治19年(1886)に開削された新道で、
江戸時代にはまだ存在してなかった。
この分岐点を"枡形跡"とする資料があるようで、注意が必要。
     
 
分岐には大きな道標が2基現存している。
     
 
左は大正3年(1914)、ここに建てられた道標で、
安積街道ではなく會津街道、陸羽街道ではなく奥州街道との表記になっている。
裏面には「日露大海戦十週年紀念」とある。
 
右は文政8年(1825)の銘がある道標で、「従是三春道」とある。
下枡形の北側にあった三春街道との分岐に建てられていたもので、
道路改廃の際に撤去・移設された。
     
 
道標の説明板。
2015年には、新たにステンレス製の大きな説明板が追加された模様。
 
なお、ここには交番が設置されていた時期もあった。
     

     
  <撤去された枡形の行方>  
 
町への昇格に伴って建設された南北2基の枡形であったが、
前述したように、明治10年(1877)には取り壊されてしまった。
 
バラされた石材は、荒池の築堤に転用されて積み並べられていたが、
その後、安積疏水の完成を記念して明治15年(1882)に作られた、
「麓山の滝」の部材として再利用されたとのこと。 (「郡山の歴史」2014版)
昭和8年(1933)に一度埋められてしまったが、平成3年(1991)に掘り起こされ、
現在でも見ることができる。  
滝があるこの麓山公園も、町昇格を記念して整備されたもの、との説があるから、
全く無縁ではなかったわけだ。
 
江戸、明治、大正と郡山の象徴であり続けたわけだが、
昭和時代の大半を地中で過ごしていたとは、なんとも可哀想であった。  
 

2006.06

滝の詳細は こちら


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