奥州街道・郡山宿             [MENU]へ戻る


郡山の発展は「明治になり安積疎水が開通し、入植者による開拓が始まって以降」と思っている人が多い。

しかし、郡山は江戸時代から拡大していたのだった。

人口の増加に伴い、宿場の入り口を示す南の木戸は2度、北の木戸も1度位置が変わっている。

 

本町1丁目6番の南東角。

ここの木戸(後期)は二本松藩公認のものでした。

それまでの木戸は私設だったわけです。

現在道路は、全く直線になっており、

枡形の痕跡はありません。

 

 

 

本町1丁目11番と14番の間。

ここに木戸(中期)がありました。

道がわずかに屈曲してます。

枡形の名残りです。

画面右(東)は阿弥陀道と呼ばれていました。

 

  

                     

本町と中町の間。

ここに木戸(前期)がありました。

道がはっきりとクランクになっています。

枡形の名残りです。

以上が前、中、後期の南の木戸跡です。

画面右(東)は行合道と呼ばれていました。

 

中町を抜け、県道17号郡山停車場線

(通称 駅前大通り)を横断します。

ここから北が大町です。

 

 

 

 

 

大町1丁目6番北東角。

ここに木戸(前期)がありました。

道がわずかに屈曲してます。

北枡形の名残りです。

 

 

 

 

郡山市大町は、30万都市の駅前ですが、

こんな建物がまだ現役で存在しています。

元旅籠のように見えますが、どうでしょう?

すぐ北に分岐があります。

 

 

 

 

西への道は、会津街道と言いますが、

これは明治の新道。奥州街道は直進です。

分岐に大正時代の道標があります。

右側の道標には「従是三春道」とあります。

少し北の三春道起点の分岐にあったものです。

       説明板を見る

                 → 三春道へ行く

 

分岐のすぐ北で道が屈曲してます。

北枡形(後期)の木戸跡です。藩公認のものでした。

以上が前、後期の北の木戸跡です。

 

 

[MENU]へ戻る

前に戻る        次へ進む→

 


  <参照>
  枡形位置の変遷から見る奥州街道・郡山宿の発達