戸の口堰の利水1 (会津若松市) 2007.07 [TOP] [寄り道] [土木遺産] [発電所]
蒲生氏会津藩の時代に開削され、明治、大正と改修されながら
存続してきた戸の口堰の取水口も、昭和16年(1941)に完成した
小石浜取水門に取って代わられ、現在は補助的な役割しかない。
最も西側(画像左)の2門が戸の口堰用の取水口であった。
[2005.09]
多くの発電所の原動力となった水路も
現在は放置され草木に覆われつつある。
堰堤上の中学生によると、魚影があるらしい。
その水面には全く動きがなく、よどんでいる。
振り返って撮影。
[2005.09]
猪苗代第一発電所用の取水門の西側に
現在の戸の口堰取水門がある。
管理棟のすぐ裏を旧水路が通っており、
現水路はその地下を直角に交差して通っているようだ。
発電所用、潅漑用、上水道用、と
今でも非常に重要な水源なのである。
十六橋水門脇にもこれと同じ標識があり、
全て「予備取水口」と位置付けられていた。
「旧水路」は廃されたわけではなく、
「予備水路」として今でも管理されているようだ。
葦が繁茂し、プランター状態になっている。
[2005.09]
水路橋に繁った葦は除去されていた。
「予備水路」に指定されたのは最近なのだろうか。
再び猪苗代第一発電所の導水路を水路橋で越える。
藪に埋もれた水門が右の画面外にある。
この先で、新旧水路が合流しているが未確認。
[2005.10]
やがて鍋沼に流れ込むが、その手前に水門がある。
右が鍋沼方面である。
破壊されているが、アーチだったらしい曲線が残る。
それにしても、ここまで徹底的に壊す必要があったのだろうか。
石を積み上げて堰堤が築かれ、巨大な調整池となった。
制水門を経て水路へ導かれる。
周辺は桜の名所らしい。
この先、車は通れないため大きく迂回する。
別ルートからの水も注ぎ込んでいた。
戸の口堰は奥へと流れている。
ここは発電所の真上に当たるので、
当然ここに取水口があると思って来たのだが、
付近にそれらしい設備が見つからない。
水路の水面より上方に何かある。
これはサージタンクではなく、ヘッドタンク(上部水槽)のようだ。
屋根がないためか自動集塵機まで設置されている。
水面は非常に静かなので、発電所は停止中らしい。
ヘッドタンクへは、別ルートの水路から取水するように
改良されたようなU字溝が接続している。(左端)
しかし、現在はコンクリートで塞がれている。
発電所の取水口はもっと上流にあり、
地下を通ってここまで到達しているのかも知れない。
鍋沼から直接取水してるのだろうか?
地形図を見ても航空写真を見ても判らない。
会津電力株式会社水力工事竣功
記念ノ為メ下田平太郎之ヲ建ツ
明治四十五年四月
戸ノ口堰第一発電所の完成を記念して建てられたものだ。
それらは当時の地元名士たちでもあった。
会長 | 大島要三 | 福島の著名な実業家・政治家 詳細 | ||
取締役 | 岡田晴橋 | 旧会津藩士で元裁判官 2014.04追記 | ||
同 | 押田巌三 | 元福島県職員 | ||
同 | 武川定八 | 旧会津藩士(家老内藤家系の人か)で県会議員 | ||
同 | 福西伊兵衛 | 江戸初期から続く会津の綿問屋 現存 |
<参考>
武川寿輔 明治10年(1877)郡山市湖南町福良にて定八の長男として生まれる。
安積中学校(現安積高校)卒業後、陸軍士官学校、陸軍大学校に進む。
台湾軍司令官・松井石根大将とは同期。陸大在学中に日露戦争に従軍。
203高地にて重傷を負う。最終階級は陸軍少将。昭和14年(1939)没。63歳
すぐ下を通る国道49号線・滝沢バイパスの脇に姿を現す。
現在、鉄管を跨いで橋が架かっている。
鉄管が一本撤去されている。
これでは出力が半分になってしまうではないか。
あれ? 初めから一本だったような地形だな・・・。
戸の口堰から分水された堰が鉄管の下を交差している。
そこから入れてしまうのが素敵(笑
発電所ができる前、ここは長大な人工滝であったと言う。
この落差に着目して発電所が建設されたわけだ。
車で発電所に行くには、かなり遠回りしなければならないが、
このまま下りて行けば随分ショートカットできる。
しかしこの急坂を上り返すハメになるわけだが・・・。
当然車で迂回する(キッパリ)