日本硫黄沼尻鉄道7 (猪苗代町) 2006.10 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
右の土地が三角形なのが気になる。
東に向かっていたと思われる。
道床の痕跡は全くない。
ブロック製の待合室に、標識が直接貼られている。
これが木地小屋駅の構内跡である。
転用されることなく残っているのは珍しい。
除草された草地を進むと駅名標が見えてくる。
現在は手前を市沢林道が横断している。
木材や薪炭を出荷するため、開業当初から駅が
設置された所である。
貨物駅と言っていいかも知れない。
使われることは余りなかったようだ。
普通の民家のような形状の駅舎が面白い。
軌道の道床は消失している。
左旧国道、右バイパスの間を通っていた。
ここから沼尻までは、急坂が延々と続く難所で、
その最大勾配は36‰にも達していた。
乗客が降りて客車を押すことも度々あったという。
軌道もこの辺りで合流していた。
ここから併用軌道になる。
石碑のある辺りから分岐していたと思われるが、
軌道跡は全く残っていない。
昭和54年に着工した圃場整備により消失したのだが、
この石碑こそ、その圃場整備の竣功を記念して
昭和61年に建てられたものなのであった。
見渡す限り水田が広がる、こんな風景の中を
かつて機関車が走っていたのだ。
適当に線を引いても、誰も反論できないこんな画像を
載せる意味があるのか、自分でも疑問だ(笑
大きく迂回する。
それが軌道の道床と違和感なく繋がっているため
非常に判別し辛いが、
航空写真を見るとこの辺りからが軌道跡らしい。
地面にはイベントの際の白線がまだ残っていた。
左側には沢が流れており、上図の地点には橋があった筈だが、
現在、橋の痕跡は全く残っていない。
(第一麻秀川橋梁か)
現在も作業道として使われており、農耕車や軽トラが
行きかっている。
「高原列車が行く」のイメージはこの辺りだろうか。
木地小屋方面を振り返る。
遠く西方にある大原集落を通らなかったのは、
急坂を避けたからであろう。
登坂車線があるような坂なのだ。
軌道跡が森の中に吸い込まれて行く。
延長1kmの長大隧道の入り口がここだ。