戸の口堰の利水3 (会津若松市)   2005.10/2007.07        [TOP]  [寄り道]  [土木遺産]  [発電所]

 

廃隧道のすぐ先に八幡配水池がある。

会津若松市の上水施設の一部である。

大きなタンクに猪苗代湖の水を貯めているのであろう。

よく見ると、奥に戸の口堰の水道橋が見える。

 

 

 

 

第二発電所から排出された水は、山上にある貯水池を経て

水圧鉄管に流れ込む。

ここも一本だけであった。

鋲どめの鉄管が古めかしい。

 

 

 

 

 

              

<戸の口堰第三発電所> 大正15年(1926)

旧国道を挟んで鉄管の反対側に第三発電所がある。

第三だけが唯一、当時のままの建物のようだ。

 

 

 

 

脇にある丸い水槽が排水口だろうか。

すぐ奥の地下で分水され、戸の口堰へと浄水場に分かれる。

八幡配水池ができて以降も使われているかどうかは

地下のことゆえ判らない。

 

 

 

 

第三発電所脇の細道を通って滝沢浄水場に行ってみる。

 

 

 

 

 

 

 

<滝沢浄水場> 昭和4年(1929)

会津にできた初めての近代的浄水場である。

当時の緩速濾過池が今でも現役で稼働中であるが、

ドーム屋根が特徴的な弁室は使われていないようだ。

近代土木遺産Cランクに選定されている。

[2011.12 追記]

(緩速濾過池弁室ではなく、石灰混和槽とのこと)

 

隣にある旧管理棟らしき建物もいい味を出している。

よく撤去されずに残ったものだ。

 

 

 

[2011.12 追記]

(この四角い建物が弁室)

 

 [2008.10 追記]

 浄水場のある敷地は、かつて陸軍の射撃練習場であった。

 当時は軍用地が市町村に払い下げられることなど考えられない時代であったが、それを実現したのが会津若松市長であった松江豊寿である。

 松江は明治5年(1872)旧会津藩士の家に生まれ、陸軍士官学校を卒業後日清・日露戦争に従軍。

 第一次世界大戦当時は板東俘虜収容所の所長をしていた人物である。

 陸軍少将を最後に退役したが、請われて若松市長になっている。その前歴が軍用地の取得を可能ならしめたのであろう。


 [2011.12 追記]  読者の方から情報を頂きました(一部改変して転載)

 「ドーム屋根の建造物について、近代化土木遺産ではなぜか「弁室」と言われておりますが、弁室にしては形がおかしいのではないかと思い、

 水道部職員として滝沢浄水場に勤めていた父に聞いたところ、弁室ではないそうです。

 父が勤めていた昭和50年代にはすでに使われていなかったそうで、父も当時気になって浄水場の先輩に聞いたところ、昔使われていた石灰の貯留タンクだそうです。

 今は中性化が進んでいる猪苗代湖ですが、昔はもっと酸性だったためpH調節のために石灰を入れて沈砂池で中和していたようです

 隣にある旧管理棟とおぼしき建屋はおそらく同時期の計量取水室で、仕切り弁(可動堰)などがあった建物であろうと言っておりました。

 父が働いていたころはすでに物置になっていたらしく、一度も開けたことがないと言っておりました。」

 

会津若松市のサイトによると、

昭和4年(1929) 3月   滝沢浄水場が完成する
       ・石造りの四角い建物(弁室)は、この時に造られた 工事中の写真に写っている
昭和7年(1932) 11月   第一次拡張事業
      猪苗代湖に流入する河川水に含まれる硫酸の影響で鉄管が腐食することから、中和のため石灰混和槽を建造
       ・この石灰混和槽と言うのががドーム屋根の建造物であると思われる

この施設が使われなくなって以降、形状が特徴的で目立つ「ドーム屋根」だけが「弁室」と呼ばれるようになったのかも知れない。

土木遺産の対象は「ドーム屋根」だけのようなので、正確には緩速濾過池弁室ではなく、緩速濾過池石灰混和槽が正しいようだ。

 


あれほど細かった堰の流れが、いつの間にか強くなっていた。

第三発電所からの排水が、戸の口堰に合流する地点を探したが、

見つけられなかった。

堰沿いを歩いてみたのだが、気が付かなかったようだ。

ほとんどの水が浄水場に行ってしまうからだろうか。

 

 

 

やがて戸の口堰は旧白河街道と交差する。

左の坂を上ると滝沢峠。右は滝沢宿経由で城下に至る。

右奥の森は飯盛山である。

 

 

 

 

堰と不動川の間の通路を進むと、

奥に古ぼけたアーチ橋が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

<坂下水路橋>

戸の口堰の流れが不動川の上を越えて行く。

石造りの水道橋が今も水を通し続けているのだ。

余分な水を不動川に流す水門が設置されている。

 

近代土木遺産Cランク

 

水が漏れているらしく、側面からはシダが生えている。

なんとも風格のある姿である。

 

 

 

 

 

 

水路橋上には鉄板が敷かれており、

容易に渡ることができる。

 

 

 

 

 

 

すぐ先で隧道に吸い込まれて行く。

コンクリートの坑門が見える。

 

 

 

 

 

扁額には「飯盛山弁天洞窟」とあった。

天保6年(1835)に行われた戸の口堰の拡幅・改修工事の際に

開削された水路隧道である。

内部には当時のノミ跡が残っているとのこと。

開削前は右側を迂回していたのだろうか。

現在でも道跡がみられるが、藪に埋もれており

通行禁止になっていた。

 

反対側に回る。

開削から33年後の慶応4年(1868)、敗走する白虎隊士の一部が

ここをくぐり抜け、その直後に自刃を遂げたことで有名になった。

会津で最も観光客が集まるスポット。 飯盛山である。

 

ここでは会津藩や戊辰戦争については触れないでおく。

 

戸の口堰は飯盛山の参道を横断して南へ流れる。

 

 

 

 

 

 

ここに昭和3年(1928)竣功の「誠橋」が架けられている。

小さな橋であるが実に凝った意匠が施されている。

 

 

 

 

 

 

 

誠橋から水路沿いに南へ進む。

「白虎隊自刃の地」を見上げながら墓地の中を通る。

 

この先に会津製氷冷蔵が自家用に造った石山発電所が

あったはずなのだが、いくら探しても森と宅地以外見つからない。

 

 

 

宅地の中で、一箇所だけ分水されたパイプがあったが

あれが痕跡だろうか。

それとも宅地造成中のここだろうか。

戸の口堰はまだ続いているが、

ひとまずここで今回の探索を終えることにした。

 

 

銚子の口から見た猪苗代湖の夕景。

湖に長く突き出した石積み堰堤。

この水が電気に変わり、東京に送られている。

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