日本硫黄沼尻鉄道9 (猪苗代町)   2006.09/10       [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

国道の踏み切りを越えると、

もう沼尻駅の構内も目の前である。

 

 

 

 

 

ここは初訪問した時から変わりがない。

何かに転用される事もなく、かと言って藪に埋もれる事もなく、

近隣住民の通路として静かな余生を送っている。

 

 

 

 

              

やがて前方に小さな橋が見えてくるが、

それにばかり目を奪われてはいけない。

道床の左側に遺構があるのだ。

お判りだろうか?

 

 

 


2009年3月の様子。

軌道跡の樹木が伐採され、上図と同じ場所とは思えないくらい

さっぱりした光景になっていた。

一方、残された木もある。

所有者は誰で、何が目的なんでしょうね?

 

 


コンクリートの小さな土台から、赤錆びた鉄柱が伸びている。

これは沼尻鉄道の信号の支柱なのである。

これと同じものが川桁駅の手前にも残っていたが、

近年の側溝工事の際に撤去されてしまった。

(「沼尻鉄道1」参照)

 

 

 

 

 

支柱の全体像を見るために、一旦築堤を降りる。

先端に三角錐のキャップが付いているのが見える。

その下に赤、青のレンズの付いた信号機本体が付いていたが、今はない。

 

 

 

 

 

 

 

築堤上に戻る。

信号機の反対側には川が流れており、

その対岸には車庫があって側線のレールが伸びていた。

車庫跡には民家が建っているが、

位置、方向、規模が車庫を踏襲しているように見える。

 

 

 

さて、先ほどからずっと見えている橋である。

こんな短い橋だが、ちゃんと名称が付いていて

第三麻秀川橋梁という。

「沼尻鉄道には4つの橋梁があった」との記述があるが、

ここで言う橋梁を「鉄橋」と解釈すると、第一、第二麻秀川橋梁は

短いコンクリート橋であったのかも知れない。

(第一は撤去され、第二は先ほど「緑のトンネル」内で渡ったもの、と推定)

 

「4つの鉄橋」とは、観音寺川橋梁、千石川橋梁、酸川橋梁。

そしてこの第三麻秀川橋梁であろうか。

先の3本とは比較にならないほどの規模であるが、

資料によれば、このガーダー橋の全長は2m70cmとある。

 

 

 


同じく2009年3月の様子。

橋台の形状がよくわかる。

奥に見える土留めの支柱は廃レールであった。

 

 

 

 


以前は腐って柔らかくなった板が雑に敷かれた状態で、

桁の上を恐る恐る渡った記憶があるが、

現在は新装されたようで、どうやら防腐処理すら

成されているようにも見える。 大変な進化だ。

しかしコンクリートの橋台は、年々劣化が進んでいる模様。

 

 

 

橋を渡った先は宅地になっており、道床は消失している。

強行突破できないこともないが、ここは迂回する。

 

 

 

 

 

 

同じ場所を反対側から見る。

右に見える草地が道床に重なる。

かつては左奥にもレールが伸びていて、

先ほどの車庫に達していた。

 

 

 

 

<沼尻駅> ぬまじり

振り返り、駅方向を見ると、右奥に駅名標が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

当時はまだなかった県道24号中ノ沢熱海線を越えると、

そこが沼尻駅のあった場所である。

駅名標の後方にある防火水槽が駅跡と思われる。

沼尻駅の駅舎は左奥に移設されて残存しており、

沼尻鉄道では最も貴重な遺構と言える。

 

 

開業当初は、やや離れた集落の名前を取って大原駅という名称だった。

おそらく当時この辺りには人が住んでおらず、よって地名もなかったのであろう。

鉱山の繁栄に伴って駅前に人が住み始め、集落を形成したものと思われる。

 

沼尻の「沼」とは安達太良山に爆裂火口である「沼ノ平」の

ことであろうし、「尻」はその下流に当たる。

つまり精錬所のあった所が、本来の沼尻なのではなかろうか。

 

当時の沼尻駅舎の様子。

この裏側に高さ35cmの低いホームがあり、

そこに立った乗客のすぐ目の前には方向転換用の

デルタ線があった。そしてその奥に広がる構内には、

貨車や客車の他、大きな機関庫や倉庫が見えていたはずだ。

(トイレの入り口にある吊り下げ式の手洗いが懐かしい・・・)

 

 

移転された駅舎は、日本硫黄を受け継いだ

沼尻観光(株)の事務所として長く使われていたが、

数年前に事務所が移転し、旧駅舎は空き家になった。

今後は保存と復元の方向に進んでいるようで、

資料館のような形にする計画があるらしい。

 

 

 

駅舎の入り口を見てみる。

様々な人が、それぞれの思いを持って通り抜けた扉が

そのまま残っている。

 

駅名が描かれた扁額は残っていないのだろうか。

 

 

 

移転された駅舎の北側には大きな倉庫があるが、

これも当時からあったものである。

この倉庫を「元機関庫」とし、内部にレールが続いていた、

と解説するサイトもあるが、私は機関庫の二棟南にあった

倉庫ではないかと推測している。

この北側の建物には精錬所からの索道が来ており

貨車への積み込み施設があったはずだが、現在痕跡はない。

 

駅のホーム前を過ぎた軌道は、そのまま真っ直ぐ進み、

山の斜面に突っ込んだ所で終点になっていた。

その痕跡はないものか、と探してみた。

するとホームの延長上に、その掘り割り跡とも見られる

「コ」の字型の石垣を見つけた。

現在は民家の敷地になっているため詳細は不明。

これは私の妄想の可能性もある(笑

 

駅の北側にある新旧国道の分岐点には、

今でも「沼尻駅前」の標識がある。

駅を中心にできた集落は、そのまま「駅前」という地名になったのだ。

こんな山奥に鉄道の駅が確かにあった証だ。

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精錬所から沼尻駅まで伸びていた索道の痕跡はないか、

と捜索範囲を広げる。

現国道沿いにコンクリートの塊を見つけて、

「鉄塔の土台か?」と思ったが違った。

送水管が国道の下にもぐるジョイント部分だった。

 

 

 

 

姫沼を水源とする水路を見てみると、

原始的な素掘りの溝だったので、接近して観察してみる。

 

 

 

 

 

 

小さな水門の跡らしき所を見ると、

そこには鉄筋の代わりにレールが使われていた。

沼尻鉄道の中古品だろうか。

 

 

 

 

 

塩ビ管の支柱として流用されていたのか、

地面に突き刺さっているレールもあった。

ここで朽ちたのではなく、朽ちたレールを使ったものと思われる。

 

 

 

 

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<日本硫黄、もう一つの歴史>  岡山県岡山市犬島 

昭和10年(1935)   日本硫黄株式会社岡山工場が操業
     従業員が沼尻鉱山から移住した
昭和39年(1964)   日本硫黄観光鉄道岡山化学工場に改称
昭和42年(1967)   磐梯急行電鉄株式会社岡山工場に改称
    同じ年に廃業、全員解雇
昭和43年(1968)   曽田香料株式会社岡山工場に受け継がれ、現在に至る

  <会社倒産に至る経緯>  wikiより転載・加筆修正  [2010.05]
  本鉄道は末期には「電鉄」と名乗っていたものの電化はされず、最後まで非電化軽便鉄道規格のままであった。
  磐梯急行電鉄への改称は、1960年代後半になって日本硫黄観光の経営権を掌握した薬師寺一馬が、
  磐越西線の電化に合わせ、1067mm改軌・交流電化による磐越西線直通、牧場やスキー場・別荘地などの観光開発促進、
  という計画を唱えたことによるものであった。
  もっとも一連の事業計画は、福島県や農林中央金庫からの融資で賄うというものなど、
  同社の苦しい実情から鑑みればあまりにも現実離れしており、実現の見込みは皆無であった。
  このため、薪炭用に日本硫黄時代から保有していた広大な山林の含み益や、場合によっては転売するなどして、何とか資金捻出を図った。
  だがそれらも既に金融機関が担保としていたり、そもそも移転登記すら行われていないものだったりして、
  場合によってはトラブルにまで発展した。
  加えて経営実態に見合わない過大な利益計上や、8%あるいは10%といった高率の配当実施など、
  健全な企業経営の原則から大きく逸脱した不自然な経営が常態化
  倒産直前の1968年には、磐梯急行電鉄株(東京証券取引所二部上場)が仕手筋の介入によると見られる異常な値動きを示し、
  投機筋の人々によるマネーゲームに翻弄されるがままに陥った。
  結局のところ一連の倒産直前の経営は、投機筋や出自の怪しい不動産業者が、
  倒産間際ではあるもののそれなりに社会的信用があった会社を隠れ蓑として、
  投資家から資金を集めながら企業の資産を食い潰したと見ても差し支えない。
  しかも唐突な会社更生法申請でさえ計画倒産に類するものであったと言われ、
  鉄道事業そのものの経営状況とは無関係に、経営的に不明朗な経緯で廃線に追い込まれたものであった。
  倒産当時はスキャンダルにもなったようで、新聞や雑誌に数々取り上げられたという。
  この休止→廃線は鉄道運行に当たっていた職員にとっても沿線住民にとっても青天の霹靂と言うべき事態であったらしく、
  労働組合による抗議や、鉄道存続に向けた活動なども行われたとされる。
  だが、介入前の段階で既に鉄道部門は赤字経営となっており、
  さらに施設が総額20億円に上る負債支払いのため差し押さえ対象となったこともあり、そのまま路線廃止が実施されている。
   
  薬師寺一馬   群馬県出身の不動産業関係者。熱海カースル社長
  住谷甲子郎   薬師寺とともに経営陣に加わった。大蔵省OBで福田赳夫の秘書的な存在
大蔵経営経理研究所所長 (社)全国日本学士名誉会員 著書多数
   
  <会社倒産後>
  磐梯急行電鉄の倒産後、薬師寺らは新たに磐梯電鉄不動産という不動産会社を設立。
  1972年に和歌山県の御坊臨港鉄道を買収し、紀州鉄道に改称して、自らはその不動産部門となっている。
  その紀州鉄道も1979年にリゾートホテル等を展開する鶴屋グループと経営陣が交代しており、その後の薬師寺らの消息は定かではない。
   
  会社倒産後の鉄道の線路や敷地などの土地は労働組合の管理下に置かれ、
  従業員の退職金はこれらの土地を猪苗代町や福島県に売却して得た金で支払われた。
  元従業員の話によるとその退職金は雀の涙ほどの金額であったという。
   
  なお、磐梯急行電鉄という法人自体は2008年時点においても休眠会社として存続している模様である。
  また沼尻地域周辺のスキー場などは、旧従業員らが設立した沼尻観光が引き継いで現在も営業を継続している。
   

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