猪苗代第二発電所専用軌道1 (旧河東町)  2009.11   [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]

 

大正時代に猪苗代水力電気が敷設した一連の工事軌道レポに関する資料として、

土木学会図書館にある「土木学会誌」「土木建築工事画報」を参考にしたが、

なぜかこの路線には全く触れられておらず、よって最近まで存在自体を知らなかった。

 

建設当時に発行された専門誌にも掲載されなかった軌道が、

70年後の1983年に発行された「河東町史」に載っているとは全く意外であった。

まずは地元の歴史書を調べる、というど真ん中のストレートを見逃したツケである。

 


猪苗代第二発電所建設に関して「河東町史・下」には、

 

「セメントや機材などは、大寺駅から北に向かい磐越西線に沿った軌道で

磐梯小学校の西から沼田の前に出てシグマ工場西から姥の湯を経て

現場の対岸に到達した」 とある。

 

この路線は「大寺専用鉄道」として紹介済みである。

 

さて、ここからが新情報なのだが、

 

「工事用の砂や砂利は第一発電所の工事と同じルートで運ばれ、

第一発電所水槽西側の蛇崩山から板桶により膳棚に落とされ、

積み替えされて軌道により萩原(ママ)から菅谷地を経て大林の現場に運ばれた」

 

と町史にしては(失礼)非常に詳細な記述があったのだ。

 

 

 

・板桶により膳棚に落とされ

「板桶」とは何だろう? 「板樋」の誤植ではないだろうか?

山の斜面に滑り台を設置して砂を流してたのではなかろうか?

 

・積み替えされて軌道により萩原から菅谷地を経て大林の現場に運ばれた

単に軌道とあるだけで軌間、動力などは全くわからない。おそらく人力か馬であろう。

3つの地名は現在の地形図に表記がないので位置が不明。

各地図サイトには表記があるのだが、それによると萩原ではなく荻原のようだ。

これも町史の誤植か。

 

以上がこの軌道に関する事前情報の全てである。

この情報は既に2年前に得ていたのだが、地図ではほとんどの部分が車道化してるように見えたため探索を後回しにしていた。

町史の情報と、推測したルートを書き込んだ地図を上げるだけで済まそうかと思ったくらいである。

しかしまさかこの優柔不断さが功を奏するとは・・・・。 これは後述する。

なお、軌道名は私が勝手に付けたものである。


 

2年前にアップした猪苗代第一発電所工事軌道・戸ノ口専用鉄道2において、私は以下のように書いている。

石垣の先は急な坂道になっており、

とても非力なコッペルが上れるとは思えないが、

土木学会誌の地図には軌道として描かれている。

 

"とても非力なコッペルが上れるとは思えない"

現場で体感したこの疑問はどうやら当っていたようだ。

------- 上ってなかったのだ。

軌道はこの付近から現車道とは別ルートを通っていた。


 

 

専用軌道の全体像。

起点・終点の位置は推定。

オレンジで示したのは板樋で、

その有無、位置も推定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回探索した部分を拡大。

C〜D間は推定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年ぶりに猪苗代第一発電所の上部水槽にやって来た。

当時はここが戸ノ口専用鉄道の終点だと思っていた。

砂を落としていたと思しき場所も分からず、その痕跡もなく、

写真を数枚撮って引き返す。

 

 

 

 

<A地点>

坂を下り始めてすぐ、路肩のすぐ下に平場があるのに気が付いた。

その細長い平場は、坂を下るに従って車道に近づき、

ついには合流していた。

 

すぐにクルマを止める。

 

今から思えば、坂の勾配が増した時点で疑うべきだったのだが、

当時の私は山側の法面に刻まれた謎の段々の方に気を引かれていた。

スイッチバックの可能性を考えていたのだ。

それで路肩側への注意が疎かになっていた。

 

こんなに鮮明な痕跡があることに気付かなかったのだ。

 

 

薄い藪を進むとすぐにお馴染みの白い標柱を見つける。

案の定「東京電力」とある。

ここが軌道跡である確立が高まってきた。

 

 

 

 

 

白い標柱は点々と存在している。

少し進んだところで振り返ると車道がずっと上に見えた。

やはりコッペルが自力で上れるような勾配ではない。

 

貨車だけをインクラインか索道で上げていたのかも知れない。

法面に見えた"段々"は機関車用の退避線跡であろうか。

 

 

進むにつれて徐々に濃くなる藪。

「これはダメかも」と悪い予感がしたが、やがて進めなくなる。

路肩には白い標柱も見えるがここで引き返す。

 

気が付くと下半身が種だらけになっていた。

 

 

 


あれ?

でも上部水槽まで貨車をインクラなり索道なりで上げてたなら、この軌道は必要ないんじゃないか?

水平に山を巻いた後、垂直に近い角度で荷を上げてたんじゃ効率悪いもの。

あっ! これは第二発電所建設に際して延長された部分なのかも!

「第一発電所水槽西側の蛇崩山から板桶により膳棚に落とされ」の先端部がここなのだ。


<B地点>

どこに落としていたのかを確認するため山裾に迂回する。

そこが本軌道の起点のはずだ。

 

とりあえず余水路に沿って上ってみる。

 

 

勾配がキツくなってきた。

奥を見ると更に急になっている。

“板樋”の終点はあの右側、等高線沿いではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

<C地点>

ここだろうか。

山側に溝が掘られており、麓側は土塁になっている。

ここでドスンと受け止めて、貨車に載せ換えていたのではなかろうか。

 

とても進入できるような状態ではないので迂回する。

 

 

<C地点>

     

車道を進むと畑の向こうの山裾に築堤が見えてくる。

左の森の中から出てきて一定勾配で真直ぐ下り、右奥に見える磐越自動車道の下へ消えて行く。

以前から存在は知っていたけど、まさかこれが工事軌道の跡だとは思わなかった。

昭和21年(1946)にアメリカ軍が撮影した航空写真を見るとこの辺りには人家らしきものが見える。

 

<D地点>

接近してみたら草深くてよく見えなかったので、今春日本化学工業専用鉄道

探索した帰りに下調べした時の写真を2枚載せる。

 

笹や潅木に覆われた築堤。

この奥の植林地の中へも続いているはずだ。

 

 

ここから西側は農道として使われていて、轍も鮮明である。

 

 

 

 

 

 

 

磐越道に向かって真直ぐ伸びている。

正面に一本の高い木が見える。

 

 

 

 

 

 

<E地点>

その立木の所に行くと、道がクランク状になっていた。

この線形はとても軌道跡とは思えない。

圃場整備の際に改変されてしまったらしい。

 

 

 

元々は緩くカーブを描いてトンネル付近に続いていたと思われる。

 

「河東町史」を知る前の私はこのクランクを見て

「軌道の線形ではない=工事軌道は存在しない」

と判断していたのだった。

 

 

 

昭和51年(1976)撮影の航空写真にこのクランクはない。(矢印付近)

 

丸印付近は起点凝定地を示す。

 

 

 

 

 

磐越道の下をくぐり抜けると道は森の中に入って行く。

浅い切り通しになっているようだ。

 

ただし前述のようにE〜F間は一部改変されている。

 

 

 

 

<F地点>

切り通しを抜けたところ。

ここから先の軌道跡は全て東京電力の管理用車道に上書きされているので、

廃線としての見どころはこの辺りまでだろう・・・、

と机上調査の段階では考えていた。

                        次へ進む→

      [TOP]  [寄り道]  [廃線Web]