白棚鉄道9 (社川橋梁〜古関橋梁) 2005.03/2012.02 [TOP] [寄り道] [廃線Web]
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<社川橋梁〜古関橋梁>
社川を渡ると、短い区間にバス停が二つある。
その後、峠を越え、工業団地の中を抜けて再び水田の中に入って行く。
<ピンクで示した道について> バス専用道をクルマでは通行できないので、当然一般道に迂回して次の目的地に向かう。 その道行きでは古い道標を探しながら移動していた。 もしかしたら「右 ○○駅ニ至ル」とか「左 汽車場」などと書かれた道標がないか、と期待しての事である。 結果的に発見には至らなかったのだが、その過程で一人の古老に声を掛けられ、昔の話を聞くことができた。 曰く、「この道(ピンクの道)は白棚鉄道ができた時に、谷中の駅(駅と言った!)に行く為に作った新しい道だ」 これまではひと筋の鉄道にだけ目が向いていたが、実は周辺の住民にとっては、直接、間接に大きな生活の変化があったことに今更ながら気が付かされた。 |
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線路は正面を遮る山塊の右裾を抜けて行く。
今までにない川幅を持つのは社川である。
社川に架かる橋には珍しく欄干があった。
といっても飾り気のない単なるガードレールに過ぎない。
橋桁はよく見る車道のそれであった。
注目の橋台は堤防に埋もれてしまい、詳細は確認できなかった。
[2012.02]追記
昭和3年(1928)10月には洪水で橋が流出したため、
しばらく折り返し運転をしていた時期があったと言う。
かなり錆びているが「社川橋りょう」と読める。
社川橋ではなく、社川橋梁という所がいかにも鉄道由来を感じさせる。
「1963.11」は竣功年であろう。
車道化が1957年であるから、たった6年で架け替えられたことになる。
いや、もしかするとここは鉄道橋を流用していたのかも知れない。
社川橋梁を渡ると緩やかな右カーブになり、同時に上り勾配になる。
ここにも踏切りがあったと思われる。
ここには一つしか待合室がなかった。
左に見える家庭用物置のようなのが待合室である。
奥が上り坂の頂点で、あとは下りである。
峠だ。
古老が「駅」と呼んだところだ。
確かにそんな雰囲気が感じられるが、ここは駅跡ではない。
「谷中の駅」とは番沢駅のことだろうか。
蒸気機関車にはキツそうな急坂だ。
[2005.03]撮影 [2012.02]追加
隣接して設置された駐輪場は木製、壁なし、トタン屋根・・・。
このウラ寂しい雰囲気がたまらない。
両側は白河東工業団地である。
荒涼たる風景だが、鉄道が現役だった頃はどんな様子だったのだろうか。
<追記> [2006.05]
手前(白河方面)に向かってややきつい下り勾配で、曲線を描く築堤になっている。
いかにも非電化・単線のローカル線、といった風情だ。
奥に古関の集落が見えてきた。
専用道だけあって一般の路線バスと比べるとかなり速い速度で走っている。
築堤はかなり高く、3mはありそうだ。
歩行者や自転車の通行を想定してないため、欄干がない。
とりあえず古関橋梁と名付けておく。
先ほどの橋と比べると、桁の幅が広いように見える。
ガードレールのないこんな狭い道を、ハイスピードで走るバスが余所者には珍しい。
画面奥に古関駅跡が見えてきた。